太田伊三郎

小松伊三郎ともいう、山形県上ノ山生まれ。蔵王高湯系岡崎栄治郎の弟子。大酒のみのうえ酒乱で、一ヵ所に定着できず、肘折、及位、蔵王高湯、釈迦堂などを職人として転々とした。 佐藤丑蔵によれば、肘折にいたころは美人で唄の上手な妻… 続きを読む

小椋甚九郎

〔人物〕明治32年6月6日、福島県耶麻郡岩月村の木地師小椋千代五郎、タツの二男に生まれた。学校卒業後、父千代五郎について木地を修業した。会津若松と喜多方の漆器の木地下を挽いていたが、昭和元年父の病気と共に喜多方市に移住、… 続きを読む

佐藤富治海

〔人物〕 昭和5年12月2日、遠刈田新地の木地業佐藤文助、よしの次男として生まれる。昭和20年8月より、文助につき木地を修業、22年春よりこけしを作り始めた。昭和27年白石市の菅野新一の弟が経営する新型こけしの工場の職人… 続きを読む

金山文太郎

明治32年、山形県真室川町釜淵の木地業金山文治郎の長男に生まれた。父の文治郎は山形県五百川村白倉出身の木地師であった。文治郎の木地の修業経歴は不明である。 文太郎は車の玉、机や椅子の脚などが専門で、こけしは一切作らなかっ… 続きを読む

鈴木運吉

〔人物〕大正14年6月7日、鳴子町湯元の大工鈴木亀吉・よしのの長男として生まれる。当時鳴子の岡崎斉吉は、自身で木地工場を経営していたが、昭和11年頃軍需品等を挽く工場をさらに鈴木亀吉方に開設したので、運吉も小学校時代から… 続きを読む

男沢春江

〔人物〕明治34年3月15日仙台市に生まれた。町奉行男澤権太夫の子孫という。大正6年に仙台市電気部に就職し、昭和4年に宮城県商品陳列所に転じた。昭和7年仙台八幡町のこけし工人高橋胞吉の作るこけしに憧れ、自ら描彩して仙台市… 続きを読む

菊地英次郎

宮城県加美郡宮崎村湯川(現在の宮崎町)の出身。菊地三九郎の弟である。明治37年ころ、兄三九郎の師匠である鳴子の高橋勘治の弟子となり3年間木地を作業した。勘治につれられて、盛、忠志、誓と共に烏川(加美郡宮崎村との境の山)へ… 続きを読む

遠藤富也

〔人物〕 昭和20年代末頃に少数売られたが、本人の経歴は判然としない。 〔作品〕 〈こけし辞典〉には項目があり、小野洸蔵の胴の太い作品を掲載して、「遠刈田系で佐藤吉之助に酷似している」と記載されているが、厳密には頭頂など… 続きを読む

長蔵文書

こけしに関する記載が文書上に現れたものとしては万延元年(1860)の「萬挽物扣帳」(岩松直助文))があり、そこには「小人形、相人形、中人形、大人形、大々人形」としてこけしの寸法が記載されている。 こけしに相当する”名称”… 続きを読む

須貝国男

〔人物〕 昭和17年3月29日、宮城県玉造郡鳴子町鬼首蟹沢の農業須貝養造の長男に生まれた。昭和32年4月に鳴子の高亀高橋武蔵の家に弟子入りし、技術は主に高橋武男、高橋正吾の指導により習得した。専ら職人として高亀て売られる… 続きを読む