大沼けさの

大沼けさの(おおぬまけさの:1851~1904)

系統:鳴子系

師匠:大沼利右衛門

弟子:

〔人物〕 嘉永4年6月28日、宮城県玉造郡大口村(川渡鍛冶谷沢)高橋丹治の二女に生まれる。高橋勘治は9歳下の弟にあたる。鳴子の木地師大沼利右衛門と結婚した。利右衛門は大沼又五郎について木地を学んだ人、こけしも製作した。利右衛門の店は湯元の坂に向かって左側、現在の岡崎斉一の店の下手(大沼薬局のあった場所)にあった。明治4年11月17日、長女のとみゑが誕生。明治8年には弟の高橋勘治が来て利右衛門の弟子となり、4年ほど木地を学んで独立した。けさのは夫利右衛門の木地に絵付けをして巧みだったという。けさのには男の子が生まれなかったので、とみゑに婿安吉を迎え養子とした。とみゑ夫婦には長男貢(明治23年10月3日生)が生まれた。利右衛門は綱引き多蔵を使って終生二人挽きであったが、明治31年旧暦4月19日(新暦6月7日)に51歳で亡くなった。
利右衛門の没後けさのは家を二つに分け、一方を弟勘治一家に任せて、もう一方で綱引き多蔵に綱を取らせ、女ながらに木地を挽いていたという。明治37年旧暦3月9日(新暦4月24日)没、行年54歳。

大沼利右衛門、けさの夫妻と孫の貢  明治25年
大沼利右衛門、けさの夫妻と孫の貢  明治25年

〔作品〕  米浪庄弌が日本橋の山三不二(佐野健吉)のもとから「西村庄」の手を経て入手した古品の中に大沼けさののこけしが2本あった。
昭和14年米浪庄弌は、この古品群の中で特に古鳴子を持参して中山平を訪ね大沼岩蔵にこの2本を見せた。岩蔵はけさのと言ったようだが、米浪庄弌はけさのが誰だか分からなかった。
ところが戦後になって西田峯吉が鳴子を訪問した時、古川からわざわざ訪ねて来た大沼貢という人が次のように言った。「自分は利右衛門・けさのの孫にあたる。岩蔵が生前言い残した言葉がある。『おまえの祖母さんのけさののこけしが2本残っている。中山平を訪ねてきた蒐集家の古鳴子の中にあった。』というのだが、岩蔵はその蒐集家の名前を覚えていない。その蒐集家の心当たりはないか?」
西田はすぐに米浪庄弌に違いないと考え、このことを手紙に書いて米浪に送った。米浪は2本のこけしの写真を撮って大沼貢に送った。大沼貢からは祖母のものに間違いない、自分も描き方を教わったので懐かしいという趣旨の返信が来た。このデリケートな経緯の詳細は〈こけし手帖・12〉の古鳴子特集号に掲載されている。また西田峯吉著の〈古鳴子追想〉〈鳴子・こけし・工人〉でも取り上げられ、その写真も掲載されている。
ところで〈鳴子・こけし・工人〉に掲載された写真を見るとけさの描彩と確実にわかるこけしは3本ある。下の写真はその典型的なけさので、肩がほぼ平らなほど低い。この手を〈鳴子・こけし・工人〉ではけさの(a)と呼び、この(a)のタイプが8寸2分(下の写真)と6寸5分の2本ある。この2本の写真が大沼貢のもとに送られた。〈鳴子・こけし・工人〉には、けさの(b)と呼ばれるものがもう1本ある。面描は全く同じ手であるが肩は今日の鳴子こけしのように高くなっている。西田は(a)(b)の木地は別人としている。そして〈こけしの美〉の解説で土橋慶三は、(a)がけさのの自挽きのこけしで明治32,3年の作と書いている。この根拠ははっきりしないが、けさのの作で大沼貢(明治23年生)が懐かしいと記憶出来た年代を考えれば明治30年代中期頃であって、製作年は土橋推定から大きくは離れていないであろう。
(a)の木地が自挽きであるとすれば(b)の木地は高橋勘治かもしれない。
下掲8寸2分のこけしの胴背には旧蔵者山三の焼印が押してある。


〔24.8cm(明治30年代中期)(米浪庄弌旧蔵)〕 (a)のタイプ

(a)の扁平な肩は、鳴子のごく古い型の一つであろう。高野幸八のロクロ模様の6寸2分にしても肩は低い。面描はいかにも女性描彩を思わせるが、ゆったりとたおやかで優美である。
そして、後に高勘へと続くこけしの祖形をこのけさののこけしは確かに持っているのだ。
この時代のこけしが、ほぼ完璧な保存で残って、それを目にすることが出来るというのは奇跡に近い。

系統〕 鳴子系利右衛門系列    高橋義一、柿沢是隆柿沢是伸父子は大沼けさの型のこけしを作る。

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