大沼健三郎

大沼健三郎(おおぬまけんざぶろう:1894~1983)

系統:鳴子系

師匠:大沼甚三郎/大沼岩蔵/大沼甚五郎

弟子:大沼健伍

〔人物〕 明治27年2月1日、鳴子の木地業大沼甚三郎の五男として生まれる。大沼岩蔵、甚四郎、甚五郎、万之丞は兄にあたる。明治42年高等小学校を途中でやめ、父甚三郎、兄甚五郎について木地を修得した。兵役除隊後は仙台サクラ商会で、岡崎斉・遊佐民之助・小松五平らとともに玩具挽きをしたが身体をこわして鳴子へ帰った。その後、兄岩蔵と中山平で約3年、さらに、栗原郡寒湯で盆挽きなどをして働き、大正9年ころ再び仙台へ出て、大沼熊治郎などと2年間大物挽きに従事した。大正12年から4年間鬼首岩入で盆挽きをした、鳴子へ帰って昭和2年より約10年間木地業から離れる。この間は営林局の人夫出しをしていた。昭和12年44歳のとき、妻が病気となり家を明けられなくなったので木地業に戻り、こけし界に復帰した。戦時中は一時中断したが、戦後は駅前の及川商店の木地工場で職人として働き、また上鳴子で独立して没するまで木地業を続けた。弟子には長男健伍がいる。昭和58年1月20日没、行年90歳。

kenzabup
大沼健三郎 昭和42年

大沼健三郎  昭和44年
大沼健三郎  昭和44年7月

〔作品〕 昭和12年復活以前のこけしは未確認であるが、復活後のこけしについても戦前作はほとんど紹介されず、個人コレクションの図録が発刊される以前は、〈古計志加々美〉〈こけし・人・風土〉〈こけし美と系譜〉等にわずか写真掲載された程度であった。写真初出の〈古計志加々美〉に「この二三年来兄を直視した稚拙な描絵のこけしを造り出している」と評されているのが好例で、戦前は健三郎こけしはほとんど評価されなかった。
「〈古計志加々美〉〈こけし・人・風土〉〈こけし美と系譜〉はともに昭和15年作であるが、〈古計志加々美〉は兄岩蔵の繊細さに影響されはじめた作品で、戦前作の中では比較的ぬるい作品の範躊に属する。〈こけし・人・風土〉〈こけし美と系譜〉は昭和14年作に近く、復活初期の作品から〈古計志加々美〉に移行する作風で、表情に張りがあり筆致おおらかで胴模様の古淡さとあいまって佳作である。昭和12、3年ころの作品には逞しい表情、古風な木地とともに鳴子こけしの剛直な一面を表わした優作が多い。備後屋における久松コレクション展で、周助、善吉、粂松等に対抗できた鳴子こけしは健三郎の復活初期の作品であった。」と中屋惣舜は〈こけし辞典〉に書き、特に復活初期の作品を高く評価していた。

〔21.2cm(昭和15年)(深沢コレクション)〕
〔21.2cm(昭和15年)(深沢コレクション)〕


〔右より 12.1cm、19.2cm(昭和15年)(河野武寛)〕 鴻頒布

〔右より 20.6cm(昭和15年)(田村弘一)、19.0cm(昭和15年頃)(北村育夫)〕
〔右より 20.6cm(昭和15年)(田村弘一)、19.0cm(昭和15年頃)(北村育夫)〕

戦後は昭和28年頃から作品が蒐集家の手に渡るようになった。戦前作のような古風な強さは失われていたが、当時鳴子を席巻していた鳴子共通型の中にあっては、大沼一家の様式と格式を崩さず、その伝統の堅牢さを示した貴重な工人だった。昭和38年頃から数多く作るようになった小寸作り付けの立ち子は、古鳴子の雰囲気を残した良いこけしだった。
下掲右端二本の昭和31年作は鳴子駅前通りの「及川商店」に長く並べられていたもの。昭和40年代の初めまで店頭で売られていた。

〔右より 17.7cm、17.5cm(昭和31年)、21.3cm(昭和35年)、15.5cm(昭和40年)、18.2cm(昭和42年)、12.0cm(昭和42年)(橋本正明)〕
〔右より 17.7cm、17.5cm(昭和31年)、21.3cm(昭和35年)、15.5cm(昭和40年)、
18.2cm(昭和42年)、12.0cm(昭和42年)(橋本正明)〕

昭和44年頃に作り付けで頭の横長の小寸をかなり多く作ったが、表情古風で雅趣に富んだ佳品であった。枯れた境地の安定した作行が感じられる。健伍も傍らにいて製作しており、精神的にも落ち着いた時期だったのだろう。

〔18.5cm 、15.5cm(昭和44年7月)(橋本正明)〕
〔18.5cm 、15.5cm(昭和44年7月)(橋本正明)〕

〔伝統〕 鳴子系岩太郎系列。

 

 

[`evernote` not found]