大沼新兵衛

大沼新兵衛(おおぬましんべえ:1886~1957)

系統:鳴子系

師匠:大沼平三郎/大沼要(誠)

弟子:大沼君子/大沼純/佐藤俊雄/土谷幸作

〔人物〕 明治19年10月14日(戸籍面では18日)、大沼平三郎の三男として鳴子に生まる。通称を要という。長兄は戸籍名を要といい、通称を誠という。父平三郎は沢口吾左衛門文書(明治21年)にも記録される木地師で、大沼岩太郎に技術を学んだといわれる。新兵衛は13歳から父平三郎、兄の誠について木地を習得した。
明治36年18歳のとき、山形県肘折温泉に出稼ぎに行き、尾形の工場で佐藤文六の下に入り働きながら大物の技術を学んだ。明治39年鳴子に帰り徴兵検査の後、2年間兵役についた。除隊後中山平の近くにある二つ森に移って木地を挽いたが、ここで明治43年秋の大水害にあい、二つ森を引き払って加美郡鹿ノ原へ行った。鹿ノ原では約1年間塗下地の大物を主に僅いて、その後鳴子へ帰った。このころ、加美郡小野田村西小野田の畠山勇三郎三女きみよと結婚した。大正4年に長女君子が生まれた。またこのころ、幼少期の後藤希三が事情があって新兵衛の家で育てられることになった。それ故、後藤希三は大沼希三として知られていた時期がある。
その後しばらく鳴子にいたが、大正11年8月ころより翌12年4、5月ころまで及位へ行って、佐勝文六の及位駅前工場で働いた。及位より帰って、大正12年6月より1年ほど鳴子木地講習所の助手を勤めた。このときの講師は丹野勝次である。後藤希三は丹野勝次に木地を学んだ。
大正14年4月11日からは仙台に移って20数年間にわたり仙台工業試験場に勤めた。この間に深沢要、鹿間時夫などの収集家の訪問を受けている。仙台時代には、昭和6、7年ころ滑津に2、3回指導に行ったほかは、ほとんど他出していない。
昭和16年、妻女きみよが他界した。昭和20年7月9日の仙台空襲によって焼けだされ、8月7日鳴子へ帰った。戦後は鳴子で足踏ロクロを用いてこけし等を作った。戦後の他出は、昭和22、3年ころ宮城県桃生郡大谷地村(現在の桃生町)での指導と、昭和23、4年ころ山形県楯岡の「県指定授産木工所」に指導に赴いた二回である。土谷幸作はこの楯岡時代の弟子である。
佐藤俊雄は、新兵衛の最晩年に、仕事の合間に病床の新兵衛を訪ね、こけしの描彩の指導を受けた。新兵衛の教え方は一筆一筆、実に懇切丁寧であったという。昭和32年10月14日72歳で亡くなるまで、鳴子で足踏ロクロを回し、一筆目の古い様式を伝えたこけしを作りつづけた。

新兵衛はきわめて厳格な性格で、気むずかしい一面もあったが、逆に人情家で義理堅く、木地屋気質を十分に持った工人であった。酒を一滴も飲まず、甘党であったともいわれている。
また、積極的に古い工人たちに働きかけ、こけしの復活を勧めた努力は、高く評価してよい。遊佐雄四郎の戦後の描彩や、高橋定助の復活は、全く新兵衛の力によるものであった。
なお、作家佐多稲子が昭和30年8月の文芸春秋別冊に掲載した「人形と笛」には昭和30年正月元旦に新兵衛を訪ねて会った時の印象が綴られている。

shinbe1
大沼新兵衛 火鉢の手前に立つのは鹿ノ原時代の旧作

shinbe4
木地を挽く大沼新兵衛

shinbe3
大沼新兵衛

〔作品〕  新兵衛の確認できる最も古い作品は、明治43年秋に加美郡鹿ノ原で作った尺二寸(36.4cm)である。このこけしは肘折から帰ったあと、鹿ノ原で働いていたとき作ったもので、後年新兵衛が鹿ノ原を訪れた際、「昔作ってもらって娘が遊んだこけしが残っている」と見せられたものを譲り受けてきたものだという。25歳の作である。肘折の文六のもとで働いていたので、眉太く上下両瞼を描く面描には文六の面影がある。明治期の貴重なこけしである。長く大沼君子の部屋に飾られていたが、君子の晩年に伊藤松一に委ねられ、いまは高橋五郎の手元で保存されている。

[ 36.4cm(明治43年)(高橋五郎)] 大沼君子旧蔵
〔 36.4cm(明治43年秋)(高橋五郎)〕 大沼君子旧蔵

下掲写真の7寸1分は深沢コレクションに大沼新兵衛名義で収蔵されていたもの。新兵衛は生前「これは自分の作ではない」といっていた。大正14年以降戦前は、新兵衛は仙台にいて鳴子にはいなかった。新兵衛の元の住所にいて岡崎斉吉工場で働いていた後藤希三には、時折新兵衛宛のこけしの注文が来たらしい。当時希三は殆どこけしを作っていなかったので、岡崎斉吉工場の職人に代作を頼んでいたという。戦前の新兵衛名義は、岡崎斉吉工場の天野正右衛門、本間留五郎や、岡崎斉の職人をしていた高野孝作などの代作といわれている。

〔21.5cm(昭和8年頃)(日本こけし館) 新兵衛名義 深沢コレクション
〔21.5cm(昭和8年頃)(日本こけし館) 新兵衛名義 深沢コレクション

戦前のこけしで新兵衛の作と確認できるものは鹿ノ原の尺二寸が唯一である。戦前、仙台時代は全く作っていない。しかし、こけしの面描画のみ描いたことがある。昭和15年4月の〈こけし・7〉に掲載されたもの、これは大沼君子が川口貫一郎に頼まれて送った新兵衛の絵を川口が木版にして掲載したものと思われる。下図がその木版であるが、この面描のこけしが残っていれば、かなり注目されるこけしだったであろう。

大沼新兵衛のこけし絵(木版)
大沼新兵衛のこけし絵(木版)

新兵衛のこけしとして最もポピュラーな作は、昭和20年代から亡くなるまでの間に作ったもので、殆どが一筆目の古風な作風であった。

〔右より 24.0cm(昭和30年)、21,2cm(昭和27年頃)(高井佐寿)〕
〔右より 24.0cm(昭和30年)、21,2cm(昭和27年頃)(高井佐寿)〕

また、時には「思い出こけし」と称して肘折風の作品を作ることがあった。このこけしは要の署名で作られることが多かった。しかしこの型は、鹿ノ原の作のように雄渾な表情ではなく、二重瞼で割れ鼻ではあるが繊細な表情であった。胴模様は重ね菊を描いていた。

系統〕 鳴子系岩太郎系列

〔参考〕

[`evernote` not found]