大沼俊春

大沼俊春(おおぬまとしはる:1929~2007)

系統:鳴子系

師匠:大沼甚四郎

弟子:

〔人物〕 昭和4年3月11日、北海道洞爺湖の桶樽製造業板垣志治郎・スヱの三男に生まれる。3歳の時母と死別、昭和9年6歳の時に鳴子から来て洞爺湖にいた木地師大沼甚四郎夫妻に引き取られて養子となった。入籍はしていなかったので戸籍名は板垣俊春であるが、こけし作者名は大沼俊春である。
昭和16年11月より養父甚四郎について木地の修業を始めた。
養父甚四郎は病弱であったため、昭和17年に故郷鳴子に一家で移り、上鳴子に落ち着いた。俊春は昭和18年鳴子高等小学校を卒業後、義叔父の大沼甚五郎や、大沼岩蔵等からも技術を教わった。昭和18年上鳴子から赤湯に転居。翌19年再び鳴子町新屋敷に移ったが、ここで養父甚四郎と死別した。
戦後は鳴子を離れ、花巻、二枚橋、盛岡(昭和30年代)、そして再び二枚橋、花巻、平泉(昭和40年代後半以降)と転居を繰り返した。
盛岡では北本武の工場で、北本のための木地を挽いた。二枚橋時代には佐藤誠が設立した花巻民芸社で働き、掘割長屋に佐藤誠一家と軒を並べて生活していた。平泉では中尊寺門前に売店を構えて、こけしも売っていた。
性格はおとなしく、また木地描彩は非常に丁寧に作るので、北本工場時代は怠けているのではないかと疑われたこともあったという。昭和58年から平成5年2月までは病気で休業した。
平成19年10月4日没、行年79歳。

大沼俊春 二枚橋時代 昭和39年8月

大沼俊春 二枚橋時代 昭和39年8月

〔作品〕 北海道洞爺湖時代からこけしは作っていたと考えられるが、その当時の作品は未確認である。初出の文献は〈こけし・人・風土〉、下の単色写真の鹿間時夫旧蔵が掲載されていた。この鹿間旧蔵品および下の原色版の米浪庄弌旧蔵品は赤湯時代の俊春の作品である。米浪旧蔵品は赤湯時代の大沼甚四郎の作風を忠実に継承している。

〔17.8cm(昭和18年ころ)(鈴木康郎)〕 米浪庄弌旧蔵品 15才と記入あり
〔17.8cm(昭和18年ころ)(鈴木康郎)〕 米浪庄弌旧蔵品 15才と記入あり

〔20.3cm(昭和19年1月)(鹿間時夫旧蔵)〕
〔20.3cm(昭和19年1月)(鹿間時夫旧蔵)〕

昭和34年1月頃より、大沼甚四郎の洞爺湖時代の作品を復元した。
きわめて忠実な復元であり、原物をそばに置いての復元ではなかったかと思われる。
下の写真の左端は昭和35年6月の東京こけし友の会例会頒布品である。

〔右より 18.4cm(昭和34年)(橋本正明)、18.5cm(昭和35年)(目黒一三)〕 大沼甚四郎型
〔右より 18.4cm(昭和34年)(橋本正明)、18.5cm(昭和35年)(目黒一三)〕 大沼甚四郎型

昭和40年代前半までは小寸の立ち子を作っても、古風な鳴子の良さを十分発揮する作品を作っていた。昭和50年以降になると描彩は装飾的かつ様式化されたものになり、かなり当時の観光土産品のスタイルに変わっていった。

〔右より 12.0cm(昭和43年)(目黒一三)、12.1cm(昭和43年)(河野武寛)〕昭和43年3月東京こけし友の会お土産こけし
〔右より 12.0cm(昭和43年)(目黒一三)、12.1cm(昭和43年)(河野武寛)〕東京こけし友の会昭和43年3月例会お土産こけし

平成7年には晩年の甚四郎9寸5分(〈こけしの世界〉掲載品)を復元したが、洒脱さまでは表現できず、規格にはまった描彩に終わった。

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〔28.7cm(平成8年4月)(庄子勝徳)〕

昭和36年9月頃より南部系のキナキナも作るようになった。下に示した2本は、〈こけしの美〉に掲載された松田徳太郎のキナキナを復元したものである。頭部の形が愛らしく、徳太郎の形象を上手く再現出来ている。

〔右より 14.7cm(昭和36年)(河野武寛)、12.3cm(昭和36年)(池上明)〕 キナキナ
〔右より 14.7cm(昭和36年)(河野武寛)、12.3cm(昭和36年)(池上明)〕 キナキナ

系統〕 鳴子系岩太郎系列 キナキナは南部系

〔参考〕 ぽっぽ堂こけしギャラリー

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