大沼又五郎

大沼又五郎(おおぬままたごろう:1824~1889)

系統:鳴子系

師匠:小田原から来た木地師

弟子:横谷善作/高橋覚左衛門/大沼勝蔵/大沼岩太郎/高橋金太郎/大沼源太郎/大沼利右衛門/岡崎仁三郎/高野幸八

〔人物〕文政7年6月13日、鳴子高野屋高野四郎作の長男に生まる。戸籍表記は亦五郎。父四郎作は旅館業で、家督は第一子である姉が相続、又五郎は弘化4年に源蔵湯隠居家督大沼三郎治(竹三郎)の長女ちやの入婿となり、弟幸作は分家して塗師となった。幸作の八男が高野幸八である。
義父三郎治は大沼弥治右衛門の長男で、三郎治の代に源蔵湯より分家した。謡曲、能楽を得意とし伊達公の御前で能を舞ったこともあったという。
又五郎は弘化年間に小田原より湯治にきて源蔵湯に泊まっていた瘡カキの木地師から鳴子でははじめて小物挽きの技術を習った。又一説では義父三郎治が鳴子での新しい産業を考えて、知人を介し小田原から木地屋を呼んだとも言う。そのころの鳴子は鬼首、田代などを中心に塗下挽きばかりで、温泉土産にする小物の木地玩具の伝統はなく、又五郎の時代にようやく小田原より移入されたことになる。
高野幸八の姉さと(安政3年11月23日生)の談によると「温泉神社の受け持ち神主をしていた早坂某が伊勢参りをして、どこかで木の人形を買って帰った。これを見本にして、小さい人形を作らせ温泉神社で一銭の賽銭を貰ってお守りとして出した。大沼又五郎がそれを4寸くらいの大きさの人形に作って店で売ったのが鳴子こけしの始まりだ」という。
こけしのような小物製品は、江戸末期から盛んになった湯治の習俗により土産品としての需要が高まり、又五郎に技術を学ぶ者も多くなった。又五郎の家は源蔵湯の下側にあり、二階建てで店先に四台、奥に六台ほどロクロを備えていた。弟子では、横谷善作、高橋覚左衛門、大沼勝蔵、大沼岩太郎、高橋金太郎、大沼源太郎、大沼利右衛門、岡崎仁三郎、高野幸八などが知られている。腕は非常に立って、二人挽きで挽いた鉋の削りかすはどこまでも長く繋がり、又五郎はそれを首にかけて湯元の坂を駆けて見せたりしたという。
明治4年正月から明治5年4月までは、水沢県庁の要請で、後妻ナツと孫源太郎をつれて水沢へ行き、木地の指導にあたった。下掲は水沢県庁から受けた辞令であり、原物は又五郎の孫孝志が所蔵していた。なお当時の水沢県庁は、現在の水沢市ではなく登米市登米町にあり、場所としては佐藤善七のいた横山不動尊に近い。

なお大沼孝志の家には、又五郎の義父三郎治が受けた謡曲、能楽、礼法などの免状なども保管されていた。
又五郎は三回結婚している。先妻ちやとの間の娘がせいで、せいには高万(現在の鳴子ホテル)より万之助を婿にとり、源太郎が生まれた。又五郎は孫の源太郎可愛さもあり、またせいの身体が弱かったこともあって娘夫婦から源太郎を引き取り、後妻ナツ(高橋治左衛門の長女)とともに源太郎を育てた。水沢県庁での木地指導には又五郎、ナツ、源太郎で行ったが、ナツは明治4年8月15日になくなり、明治5年源太郎と鳴子に帰るとその年の10月23日には娘のせい(源太郎の生母)も亡くなった。そのため養子に来ていた万之助は高万に返すことになった。その後、又五郎は後々妻として四目勘治郎二女よなを荒尾村(現在の仙台市国分町)から迎えた。鳴子に戻ってからも湯元の工房で木地業を続けたが、明治22年2月3日に没した。行年66歳。
葬儀の際の香典帳が残されており、弐十銭が、高橋万造、大沼岩太郎、沢口吾左衛門、十銭が高野幸作、横谷善吉、高橋覚左衛門、岡崎仁三郎、高橋金太郎、大沼利右衛門、その他は十銭未満である。十銭以上は親族(高橋万造)と、沢口吾左衛門、その他は弟子あるいはその親であったという。
また正式の弟子以外にも見取りで又五郎の小物挽きの技術を身につけた者もいて、この木地玩具製作の波紋は鬼首、川連、築館方面にまで及んでいたと思われる。


 上掲写真は源蔵湯(現在の鳴子観光ホテル)で、この右手下側にロクロ10台を備えた二階建ての又五郎の工房があった。

〔作品〕大沼又五郎作と言われるこけしが一本ある。これは仙台の古いこけし愛好家の故鈴木軍治が所蔵していたもので、大沼岩太郎の鑑定により又五郎作とされたもの。
これを否定する材料はなくおそらく又五郎作と言ってよいであろう。


〔28.3cm(明治初期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

このこけしで興味深いことは、当初4寸ほどの大きさでお守りのようにして売られたと言うこけしが、明治初期には雛壇に飾られるような大寸の上手物に発展していたという点である。下掲の写真のように頭部には精緻な描彩で髷が描かれている。


又五郎作の頭部

おそらく大寸の上手物が作られるようになった背景には、庶民レベルでも雛祭りが隆盛になったことと関連があるだろう。
雛祭りは平安時代に貴族の子女が行なっていた「あそびごと(ひなあそび)」から始まったといわれるが、それが三月の節句の祭りと結びつき、江戸時代に大きく発展したといわれる。特に、都市部が経済力をもつ江戸後期になると、裂製の優美な衣裳雛に諸道具や添え人形も加わり、豪華な段飾りや御殿飾りが出現した。江戸では〈江戸名所図絵〉雛市などで描かれたように庶民も喜んで雛人形を求めるようになった。

さらに江戸末期から明治時代にかけて、土、紙など身近にある安価な材料を使って庶民のための雛人形が全国各地で作られ始めた。
東北においても土人形や張子の雛は多く作られた。おそらく木地屋がいて玩具を作っている産地では、木製の雛人形が求められたであろう。また、仙台周辺には、そうした雛を売り歩く赤物師という行商人もかなりいた。赤物師たちは、村や町の祭礼などの折に人形、玩具を売っていた。そうした赤物師たちにとって、雛様式の大寸こけしは非常に好都合の商品だったと思われる。土人形や張子に比べて壊れにくく、またもてあそび物の安価な細胴のこけしに比べて、十分な単価を取れたからである。江戸末期から明治のはじめのころ、大沼又五郎はこの需要に対応したのだろうと思われる。後に同様の大寸上手物を作った高橋勘治や、尺二寸五分の男女一対のこけしを作って大阪の蒐集家岸本五兵衛(彩星)に送った高野幸八も同様と思われる。
極く早い時期に、子供のもてあそびものとして小寸細胴のこけしと、飾り物としての大寸上手物のこけしとの分化が起きていたということは重要なポイントである。
大沼又五郎はそうした分化を推進した最初の工人でもあった。

〔伝統〕鳴子系 鳴子の全ての系列の源流。

〔参考〕

  • 橋本正明:鳴子こけしが生まれたころ〈こけし手帖・626〉(平成25年3月)
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