金比羅参り

金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社。金毘羅宮、金比羅宮と書かれる場合もある。
江戸時代後期、伊勢神宮へ参拝する伊勢参りとならんで金刀比羅宮への参詣が庶民の間で流行した。安藤広重の浮世絵東海道五十三次の一つである「沼津」には金比羅参りの後姿が描かれている。また十返舎一九の滑稽本の東海道中膝栗毛には、主人公の弥次さんと金比羅参りの格好をした男との饅頭の食べ比べの話などもある。
金比羅参りには多くの経費がかかるため、各地で金比羅講が組まれた。
こけしの産地となる東北の各地でも、文化文政期には金比羅参りや伊勢参りが行われ、それを記録する石碑(金比羅碑など)が残されている。
土湯には山根屋の渡邉源五郎の発願になる金比羅碑(文政六未年三月一日)があり、遠刈田新地には文政六年八月吉日および文政八年十月十日の金比羅大権現碑が残されている。
金比羅参りは大体伊勢参りとセットになっていたようで、参拝の後で京都などを見物して帰ってきたようである。
赤や青の染料を用いる木地玩具は、箱根小田原で古くから作られていたが、東北の木地にかかわる人たちが伊勢参りや金比羅参りの往復に、そうした木地玩具と接したことが、重要な契機となって染料を用いる赤物の玩具が東北に伝わり、やがてこけしの誕生につながったといわれている。

土湯の金比羅碑 「文政六未年三月一日 金比羅 願主源五郎」
土湯の金比羅碑
「文政六未年三月一日 金比羅 願主源五郎」

遠刈田新地入口に建つ金比羅碑 文政6年8月吉日
遠刈田新地入口に建つ金比羅大権現碑
「文政六年八月吉日」

遠刈田新地 山神・古峯神社入口に建つ金比羅碑 文政8年10月10日
遠刈田新地 山神・古峯神社昇り口に建つ金比羅大権現碑
「文政八年十月十日」

遠刈田新地における金比羅、伊勢への参詣は、このあと明治19年くらいまで続いたようで、菅野新一〈山村に生きる人々〉には茂吉が明治11年に、箕輪新一〈木の花・21〉「遠刈田古文書考(八)」には、吉五郎が明治19年に参詣した記録が紹介されている。茂吉はその道中記の箱根のところで「木地物箱物品々名物あり」と記している。吉五郎の道中記に寄れば、伊勢のあと、奈良、吉野、高野山を廻り大阪から蒸気船で多度津に上陸して金比羅を訪れている。丸亀から船に乗り田野口、岡山、有馬を経て京見物をし、三井寺中山道を経て善光寺に参り、柏崎、新潟、新発田にいたり、米沢、赤湯、山形を経て、遠刈田に戻っている。
おそらく他の年の伊勢・金比羅参りもほぼ似たようなコースであろう。茂吉の同行者からその年齢を推定すると、ほぼ38歳から17歳まで、茂吉は19歳、吉五郎の場合は23歳であった。

遠刈田 佐藤吉五郎の道中記(明治19年)
 遠刈田 佐藤吉五郎の道中記(明治19年)

なお、鳴子の近在では鬼首の久瀬(荒雄川神社の近く)に「安政六年六月十日 願主 新蔵」の金毘羅大権現碑があり、鳴子周辺でも金比羅参りが行われていたことがわかる。
西田峯吉の〈増補:鳴子・こけし・工人〉には、高野さとが松田初見に話したこととして「温泉神社の受け持ち神官をしていた早坂某が伊勢参りをして、どこからか木の人形を買ってきて、これを見本にして、小さい人形を作らせて温泉神社で一銭のお賽銭をもらってお守りとして出した。大沼又五郎(戸籍表記 亦五郎)がそれを4寸くらいの大きさの人形に作って店で売ったのが鳴子こけしの始まりだ。」と書かれている。
こけしの誕生と伊勢参り、金比羅参りの関係は重要である。

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