小倉篤

小倉篤(おぐらあつし:1922~1968)

系統:弥治郎系

師匠:小倉嘉三郎

弟子:

〔人物〕 大正11年6月1日宮城県弥治郎の小倉嘉三郎・けさよの三男に生まれる。学校を出ると16歳から、嘉三郎について木地を修業し、家業を助けた。昭和21年八宮の武田フクヨと結婚、勝志、武雄、真佐子、宏之、勝義の四男一女をもうけた。25年嘉三郎が中風になってからはもっぱら篤のこけしが小倉家の代表となった。28年区長となる。31年に父嘉三郎が没した。43年5月妻死亡、同年10月15日野良仕事中脳溢血で死亡。47歳。こけし製作は20年間以上に達し、かなりの数が蒐集家の手元に残っている。父嘉三郎は「ひなたのじんつぁん」と呼ばれる温厚な人柄であったが、篤も穏やかで人望が篤かった。若くして亡くなったのは惜しまれる。

小倉篤 昭和42年

小倉篤 昭和42年

〔作品〕 戦前は14年ころからこけし製作を開始した。極初期の作例はここに示す久松保夫旧蔵の2本、そして鈴木康郎蔵の2本、ほぼ同時期の作例は〈こけし辞典〉に鈴木鼓堂旧蔵(昭和16年)がある。木地いまだ稚拙ながら初々しい魅力がある。ここに載せたもう一本は中屋旧蔵の昭和17年頃の作例で、おそらく嘉三郎を意識したこけしであろう。実におおらかな佳品で、頭部のアンバランスがかえって好ましい。梅花は嘉三郎が描いていたかもしれない。戦後のこけしについては、「昭和20年代一時嘉三郎の草書体をものにしたが、しだいに大野栄治の作風を志すようになった。36年ころの作は大野栄治に匹敵し、巧緻をきわめた佳作であったが、以後は筆勢が落ちた。嘉三郎の草書体を荒々しく正硬にしたようで、嘉三郎風と栄治風の間に立って混乱し苦悩したものと思われる」と鹿間時夫は〈こけし辞典〉に書いている。ただ篤が活躍した時代は、新型こけしが大衆に広く受け入れられた時代でもあり、伝統的な型と時代の好尚との狭間に立って苦悩していたようにも見える。

〔30.0cm(昭和14年)(北村育夫)〕
〔30.0cm(昭和14年)(北村育夫)〕 橘文策旧蔵

〔右より 24.2cm、30.3cm(昭和14年)(久松保夫旧蔵)〕

〔右より 24.2cm、30.3cm(昭和14年)(久松保夫旧蔵)〕

〔右より 14.2cm(昭和15年頃)米浪庄弌旧蔵、20.0cm(昭和15年6月)(鈴木康郎)〕
〔右より 14.2cm(昭和14年頃)米浪庄弌旧蔵、20.0cm(昭和15年6月)(鈴木康郎)〕

〔26.0cm(昭和15年頃)(中屋惣舜旧蔵)〕 〈こけし美と系譜〉101図 原色版掲載のもの

〔26.0cm(昭和17年頃)(中屋惣舜旧蔵)〕
〈こけし美と系譜〉101図 原色版掲載のもの

〔右より 30.3cm(昭和36年)、36.4cm(昭和34年)(橋本正明)〕

〔右より 30.3cm(昭和36年)、36.4cm(昭和34年)(橋本正明)〕

〔右より 16.5cm(昭和32年)、15.5cm(昭和42年7月)、18.3cm(昭和40年3月)(橋本正明)〕

〔右より 16.5cm(昭和32年)、15.5cm(昭和42年7月)、
18.3cm(昭和40年3月)(橋本正明)〕

〔伝統〕 弥治郎系嘉吉系列。長男勝志が嘉三郎-篤の系列を継承している。

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