小椋カネ

小椋カネ(おぐらかね:1868~1942)

系統:木地山系

師匠:小椋徳右衛門

弟子:

〔人物〕明治元年10月13日、小椋徳右衛門・マサの長女として、秋田県雄勝郡川向村二五六番地(現在秋田県湯沢市皆瀬水上沢)に生まる。小椋久四郎・石蔵等の姉にあたる。明治24年10月、川連町大舘の塗師の小野寺梅太郎と結婚。
カネは娘時代から綱取りをして手伝っていたが、鉋をとることもでき、自分で挽いたこけしには自分で描彩を施したという。夫の梅太郎の家は代々の塗師であり、蒔絵を描くことは専門であったから、梅太郎は木地山こけしの描彩にも種々ヒントを与えていたという。久四郎の創作のようにいわれている前掛横梅模様は、家紋の梅鉢にちなんだといわれているが、実際は梅太郎の原案によるという。昭和17年3月17日没、行年75歳。 

〔作品〕確認されたカネの作品は次の三本のみである。昭和15年10月、川連の小椋信治の家に来合わせていたカネと会った渡辺鴻のために描いたこけしが〈鴻・6〉に写真紹介されている。木地は別人(信治の木地かもしれない)であるが、その描彩は一筆目で胴に枝つきの菊花をさらりと描いた古雅・枯淡なこけしであった。
なお川連の小椋信治の父は庄之助(明治24年5月5日生)、その父は庄太郎(慶応元年1月16日生)で小椋徳右衛門の二男、すなわちカネの兄に当たる。小椋正治は庄之助の弟にあたる、


〈鴻・6〉に掲載されたカネのこけし(描彩のみ)

下掲写真は、昭和16年8月米浪庄弌が木地山訪問の折、たまたま川連大館より訪ねてきたカネに作らせた二本のこけしである。留三の妻に綱取りさせてカネ自身が挽いて描彩した貴重なこけしである。自挽きだけあって、描彩ともマッチしておりカネ本来の姿が伺える。


〔右より 18.2cm、24.2cm(昭和16年8月)(米浪庄弌旧蔵)〕

この二本を入手の経緯について、米浪庄弌は〈こけし教室だより・13〉〈こけし山河・210〉に次のように書いている。

「木地山への道も昨年秋から湯沢―泥湯バスが開通したので、こけしの難所行も大変楽になった。
 私は昭和十六年八月、秋田十文字駅から川連、稲庭、坂戸を経て坂宿で馬を借り、二里半の山路を木地山へと辿りついたことを思うと、全く隔世の感がする。 生憎、久太郎応召で逢えなかったが、偶然大館から来ていた亡久四郎の姉カネに逢って、木地山こけしの古い話を聞かせてくれたことは、誠に幸運であった。カネの夫梅太郎は絵が大変上手だったことや、梅もよ うは久四郎一代の創作で元来菊が木地山もようだったこと、カネも少女時代から綱引や描彩を手伝ったなどの話に興が乗り、留三の妻女に綱引かせて大小二本のこけしを自分で挽いて描彩してくれた。幾十年ぶりと言うが、古い木地山こけしの夢を追うかの様なこけしである 矢張り私の思い出に蘇へってくるこけしである。」
また、鹿間時夫は〈こけし鑑賞〉で次のように評した。
「なよなよとした簡単な筆致は捨てがたい情趣を持っている。目鼻の表情も素朴さのうちに一抹の剛直な気概を宿していて、一種ユーモラスでさえある。このような面描は真似も復原も不可能であろう」

 

〔伝統〕木地山系

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