小椋啓太郎

小椋啓太郎(おぐらけいたろう:1897~1973)

系統:木地山系

師匠:小椋運治

弟子:

〔人物〕 明治30年7月19日、秋田県雄勝郡大館の木地業小椋運治の長男に生まれる。祖父勇右衛門は吉左衛門家から養子に入った人で、その子である運治は米吉、久四郎と従兄弟であたる。小椋泰一郎は運治の兄養治の長男であるから、啓太郎とは従兄弟にあたる。
本来が木地師の家系であり、17歳ころより父の運治につて木地を学んだ。
製品は殆どが川連漆器の塗下である。父運治は大正8年に51歳で亡くなった。
昭和7年7月に橘文策が来訪、皆瀬木地山の系統をひく工人たちにこけしの製作を依頼した。小椋啓太郎名義の作品が蒐集家の手に渡るのは、それ以後であり、〈木形子談叢〉で写真紹介された。
ただし、啓太郎自身は描彩は一切行わず、他人に依頼して描いてもらっていたという。
その後も戦後まで、描彩者は変わることはあっても啓太郎名義のこけしは、注文に応じて作られていた。
昭和48年2月11日没、行年77歳。

小椋啓太郎 昭和16年8月30日 撮影:加藤文成
小椋啓太郎 昭和16年8月30日 撮影:加藤文成

小椋啓太郎 昭和31年8月 大浦泰英撮影
小椋啓太郎 昭和31年8月 大浦泰英撮影

〔作品〕 〈木形子談叢〉で紹介されたものはやや太めの胴に菊水模様の着物柄のこけしであった。下に写真に示す7寸が、橘文策旧蔵の〈木形子談叢〉に載ったこけしである。
〈木形子談叢〉で橘文策は「小椋啓太郎は四十近い年配の木地山直系の作者である。造附の様式をとっているが、稍太くてズングリした所に特色がある。材に朴を使用しているので肌目に禍されて折角の色彩がどんよりしている。憂鬱ではあるが、裏日本の冬に相応しい濃厚な郷土色となっている。未だ無名の作者で、多作の経験もないので、郷玩らしくリファインされた美しさもなければ、渋味も足りない。眺めていると、だんだん物足りなさを覚える程度ではあるが、将来を託するには足る異色作者の一人として紹介しておく。」と書いた。
橘文策は啓太郎のこけしの描彩が別人の手によるものであったことは知らない。
ただ啓太郎のこけしとしては、この初作が一番面白い作品であった。やや描法は変化するが、昭和10年くらいまで菊水模様の描彩は続く。

〔21.3cm(昭和7年)(鈴木康郎)〕 橘文策旧蔵
〔21.3cm(昭和7年)(鈴木康郎)〕 橘文策旧蔵

下の3寸も、一応菊水模様、小寸のためか着物の襟や帯は省略されている。
初期のこけしの菊水は菊と直線を重ねた水面であるが、この3寸では菊に渦巻く水流となっている。菊水の紋の水流を意識したかもしれない。描彩者も違う可能性がある。

〔9.3cm (昭和10年頃)(橋本正明)〕  野々垣勇吉旧蔵
〔9.3cm (昭和10年頃)(橋本正明)〕  野々垣勇吉旧蔵

昭和14年くらいになると松竹梅を配した振袖付きの着物を描くようになる。この松竹梅のこけしは、戦前の描彩者は小野寺重一、戦後は小野寺岩蔵であったと言われている。
振袖松竹梅になると、啓太郎の泥臭い面白さは影を潜めてしまう。

〔30.3cm(昭和35年頃)(高井佐寿)〕
〔30.3cm(昭和35年頃)(高井佐寿)〕

〔21.3cm、24.8cm、21cm(沼倉孝彦蔵)〕

〔21.3cm、24.8cm、21cm(沼倉孝彦蔵)〕

〔系統〕 木地山系 菊水模様の啓太郎型は阿部平四郎が作り、そして阿部木の実によって継承されている。