小椋泰一郎

小椋泰一郎(おぐらたいいちろう:1889~1951)

系統:木地山系

師匠:小椋養治

弟子:高橋文一/沓沢保四郎/井上儀三郎/佐藤兼一/柴田鉄蔵/小野寺松治/佐藤蔵之助/小野寺徳一/小椋嘉市/小椋捨次郎/小椋勇三郎

〔人物〕明治22年4月20日、秋田県雄勝郡高松村120(水上沢木地山)小椋養治、カヤの長男に生まれる。父養治は小椋勇右衛門の長男で、代々初右衛門を名乗った。カヤは小椋利左衛門(吉左衛門の長男)の長女であり、カヤの母ナツは小椋岩右衛門の娘にあたる。したがって泰一郎は初右衛門家・吉左衛門家・岩右衛門家すべての血を受け継いでいることになる。また妹よしのの長男が佐藤兼一である。
明治31年10歳のとき、一家は川連大舘に下り、木地業を開業した。泰一郎は12、13歳ころより父養治について木地を修業した。当時川連では小椋米吉が鳴子方面より見取りで学んできた一人挽きが始まり、泰一郎は最初から一人挽きを修業したという。最初に玩具類を、さらに蝋燭立て、煙草入れ、菓子皿、盆等を挽いたという。大正元年26歳で蒔絵師沓沢一内、コンの娘タカと結婚。
大正7年に長男嘉市が生まれた。大正10年父養治が没してからは家業をついで木地業を続けた。こけしは泥湯、鷹の湯、小安、須川などで売られた。昭和3年に次男捨次郎が生まれた。
昭和4年天江富弥が川連を訪問、漆器商佐藤利吉のもとに轆轤があるのを見てこけしを注文したが、利吉は泰一郎に依頼し取り次いでこけしを送ったので、作品は利吉名義で知られた。そのため昭和5年刊の武井武雄著〈日本郷土玩具・東の部〉では佐藤利吉名義で泰一郎こけしが紹介された。また昭和7年〈 木形子研究・2〉では、佐藤利吉名義で泰一郎のこけし頒布( 木形子洞頒布)が行われた。
泰一郎の名が収集界に知られたのは、昭和7年7月の橘文策の訪問以後であり、〈 木形子異報・3〉「川連の 木形子作者」に詳しい現地報告が掲載された(〈こけしざんまい〉「こけし紀行」にも同趣の記事がある)。昭和8年に三男勇三郎が生まれた。
泰一郎の弟子では年代の古い順に、高橋文一・沓沢保四郎・井上儀三郎・甥の佐藤兼一・柴田鉄蔵・小野寺松治・佐藤蔵之助などが知られている。なお小野寺徳一も高橋兵治郎の弟子になる前に一ヶ月ほど泰一郎についたことがあるという。
戦後も木地業は続けていたが、こけしはほとんど作らず昭和26年2月17日川連大舘にて没した。行年63歳。


中央:小椋久太郎 右:小椋泰一郎  昭和16年 撮影:萩原素石

〔作品〕天江富弥の川連訪問が昭和4年であるので、天江収蔵品は昭和4年の作と言われていたが、下掲のこけしは大正14年撮影の写真にも写っていたとされるので大正末期の作と思われる(〈図譜「こけし這子」の世界〉)。


〔 20.3cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション  A型

下掲2葉は昭和5年1月に「日本郷土玩具・東の部」で佐藤利吉名義で紹介され、蒐集家が注文を送った時期のもの。橘文策も昭和5年8月に注文状送って入手、また昭和7年には 佐藤利吉名義の泰一郎をセットで木形子洞頒布している。


〔右より 15.5cm、10,0cm(昭和5~7年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション A型


〔 10.1cm(昭和5~7年)(橋本正明)〕 A型

下掲3本のうち中央は、鼻は二本の短い点で描かれ、また細身の胴は〈日本郷土玩具・東の部〉掲載のものに近い。武井武雄は「木地山のルネッサンス式の円みに引き換えてこれは実にすっきりと細長くセセッション式の尖塔を思わせるものがある。」と書いた。昭和4年頃のものと思われる。旧蔵者は武井武雄と同時期の人という。右端は〈古作図譜〉〈木偶相聞〉掲載のもの。


〔右より 22.0cm A型(昭和10年頃)(植木昭夫)、28.6cm(昭和4年頃)A型、30.5cm B型(昭和9年頃)(鈴木康郎)〕


〔右より 22.4cm(昭和12年頃)(目黒一三)、22.2cm(昭和12年頃)(田村弘一)〕C型

泰一郎のこけしの様式:下記のA・B・Cの三つの型に分類されている。

  • A型は、細目の木地に木地山系の古い様式である菊紋様を描いたこけしで、父養治の型をそのまま伝承したものという。この菊紋様の原型はおそらく蒔絵にあり、同型の菊紋様をほどこした盆が川連に現存している。鼻は初期のものは二つの点状に描かれている。
  • B型は、A型とほぼ同形の木地に前垂を描いたもので、模様には、井桁・十字ガスリ・ヤの字ガスリ等を描いており、特に井桁模様が多い。これは泰一郎が考案した模様で、久四郎の前だれがヒントになっている。昭和4年の武井武雄蒐集品の佐藤利吉名義のなかに既に十字絣の前垂れ模様のものがある。鼻は初期のもの(武井蒐集品)は二つの点状に描かれ、昭和十年頃にはに丸鼻に変わっている。
  • C型は、太目の木地で頭も大きくA・B型に比べて作行が非常に異なっている。泰一郎の新趣向の作で、眼はべったり黒く、なかには垂れ眼のものもある。鼻は丸鼻。かつてC型は泰一郎ではなく別人の作と言う説もあったが、泰一郎の妻女タカの証言により、泰一郎が新創案で、自分で製作したものとわかった。

作り始めた年代はAが古く、B、Cの順であるが、後年はA、B、Cを併行して作っていたから、この型だけで製作年代を決めることは出来ない。
一定寸法以上のこけしの肩に付けていた丸い段状の輪は、後年になるとなくなるものもある。ただし、4寸以下の小寸では古いものでもこの段状の輪を付けないものもあった。


小椋泰一郎 妻女タカ 撮影:橋本正明

系統〕木地山系
泰一郎の型は、湯沢の工人たちの標準形となって、阿部平四郎阿部陽子阿部木の実、佐藤兼一、佐藤秀一、北山賢一、沼倉孝彦、三春文雄など多くの工人が作るようになった。

〔参考〕

  • 土橋慶三:泰一郎こけし〈こけし手帖・39〉(昭和36年12月)
  • 鈴木康郎:談話会覚書(11)小椋泰一郎のこけし〈こけし手帖・621〉(平成24年10月)
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