小島正

小島正(おじまただし:生年不明~)

系統:鳴子系

師匠:見取り

弟子:

〔人物〕鳴子の人。昭和10年ころ東京に出て、本所区厩橋一丁目で木地工場を開業した。職人は鳴子の大沼正雄であった。小島正自身が木地を挽いたかどうかは明確ではない。挽いたとすれば見取り学問であろう。
東京で開業していたため在京収集家が利用して多くのイミテーションを作らせた。天江コレクシ
ョンの伝大沼又五郎、佐々木要吉かとされる鉛こけしなどの模作は有名であり、吾八、三五屋で売られた。
昭和13年の縮写こけし頒布の会で頒布されたものも、小島正の工場で大沼正雄が挽いた木地に画家の猪谷春峰が描彩したものであった。また小島正名儀で収集界に渡ったこけしにも正雄の木地がある。正雄は描彩をしなかったというから、小島正名儀のこけしの描彩は小島正自身の描彩と思われる。また、胴の中に手紙を入れて送ることのできる通信こけしと称する製品も工夫したという。
昭和16年2月発行の〈鴻・第8号〉の表紙は小島正のこけし絵が使われた。


〈鴻・第8号〉の表紙 小島正の描画

専ら木地を挽いていた大沼正雄は、鳴子の兄大沼竹雄が昭和15年1月5日に亡くなったという報を受け、急いで鳴子に向かったが、小島正の工場の労働条件は極めて劣悪だったようで、正雄自身もすっかり身体をこわしていた。そのときはすでに鳴子駅から自宅へ歩いて帰れないほどの衰弱であったという。正雄は、兄の死後一ヵ月もたたずに、昭和15年1月23日、行年31歳で没した。
木地職人大沼正雄を失った小島正はやがて鳴子へ帰り、現在の早稲田湯通りにバー「こまどり」を開いて戦後かなりの期間、その経営していた。晩年の消息、および没年は不明。
 
〔作品〕下掲の7寸は東京厩橋小島正名義で売られていたもの。木地は大沼正雄、描彩は小島正である。上掲の〈鴻・第8号〉は昭和16年2月発行であるから表紙絵は既に正雄がなくなった昭和16年1月以降に小島正が描いたものであろう。ただその描彩は下掲のこけしの描彩と基本的に同じ様式である。小島の店で販売された模作についても正の描彩と思われる。


〔21.2cm(昭和14年)(ひやね)〕木地は大沼正雄

下掲は木地大沼正雄、描彩小島正、右端は大沼又五郎(天江富弥蔵)の模作。〈こけし辞典〉には鹿間時夫旧蔵の同種の又五朗型が掲載された。」左端は最も標準的な小島正名義のこけし。


〔右より 18.0cm(昭和11年)、27.9cm(昭和14年)(高井佐寿)〕

〔伝統〕鳴子系ではあるが他系のものの模作の描彩もしたと思われる。

〔参考〕

 

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