小原直治

小原直治(おばらなおじ:1869~1922)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤周右衛門/佐藤寅治

弟子:菊地幸太郎/大沼由蔵/佐藤貢

〔人物〕  明治2年10月17日、遠刈田新地の佐藤周右衛門三男に生まる。明治14年より父周右衛門につき二人挽きロクロを修業、同18年兄寅治が田代寅之助の弟子となって一人挽きロクロを学んだ後は、寅治より一人挽きを習得した。明治25年ころには遠刈田温泉の源八工場で働いたが、問26年小原仁平が、青根に木工所を作ったとき、招かれて伯父七蔵、兄寅治と共に小原木工所の職人となった。
小原仁平は柴田郡川崎の出身で、青根の佐藤仁右衛門旅館にしばしば逗留するうちに青根永住を決意し、明治22年にこの地に小原商店を開業した。当初は仕入れた品物を売っていたが先に開業していた丹野倉治の木工所に対抗して明治26年に小原木工所を開設した。直治はここで盆、椀、玩具、こけし等を作った。日清戦争直後には非常な活況を呈し、佐藤文六、佐藤直助、佐藤文平など多くの工人が小原仁平の工場に集まった。仁平の甥島津善三郎や従兄弟の小原亀一もこの工場で働いた。明治29年、直治は見込まれて仁平の娘きくのと結婚し、婿養子となって小原姓に変わった。明治30年以後、仁平は木工所をすべて直治にまかせた。直治は事業を大いに拡張して、遠刈田から佐藤周治郎、善八、松之丞、重松、治平、周吾などを職人として招き、また鳴子から大沼岩蔵も加わった。その製品は青根、遠刈田から、秋保、仙台、白石、山形、飯坂にまで進出した。小原と丹野が競って営業したそのころが青根木地業の全盛期であった。
明治36年には照井音治が弟子入りし、蔵王高湯の岡崎長次郎も約半年ここで修業した。明治39年小原工場が火災で焼失し、以後青根温泉山ノ湯に工場を建てて新たに開業した。明治40年には菊地孝太郎、大沼由蔵が弟子入りした。
直治は明治41年に青根に小原工場を再建したが、このころは遠刈田や箱根ものに押されがちになり、青根木地業は次第に衰退していった。大正5年ころより、兄寅治等と共に黒川郡吉田村嘉太神で木地教師として働いたが、同6年ころ青根にもどり、木地を続けた。大正7年より佐藤貢、真壁儀造が入門し、儀造は大正10年ころまで、貢は大正11年まで木地挽きを修業した。直治は青根木地業のもっとも盛んなときの中心人物として活躍したが、 大正9年頃に結核を発病し、大正11年12月18日他界した。 行年54熾。  

小原直治

〔作品〕 小原直治は、長い間作品未確認として扱われてきたが、昭和33年春に鹿間時夫が遠刈田古作7寸(〈こけしの美〉図版136〉を青根に持参し、多くの工人に鑑定を依頼したところ、よくわからぬという応えも多い中で、菊地孝太郎、吉弥などから小原直治との回答を得た。菊地孝太郎は、小原直治と共にいて、直治が死んだ時には30歳を越えていたからその証言一応信頼してよかろうとということで、以降、これと同種の作品を含めて小原直治として扱われる様になった(鹿間時夫:〈こけし手帖・21〉昭和33年6月)。
一方で、〈こけし這子の話〉の図版1陸前の右端に掲載された遠刈田新地古型大小についても、一時小原直治説があったが、この二本は大正8年に天江富弥が遠刈田の北岡商店で求めたものであり、その時代の北岡の職人で面描筆致が該当する佐藤治平の作であることがほぼ確実になった(高橋五郎:〈佐藤治平と新地の木地屋たち〉昭和54年)。
鹿間時夫の直治7寸と同様の作は、深沢コレクション、米浪コレクション等に何本か現存する。関西の蒐集家から出たものが多く、おそらく昭和初期に大阪の乙三洞が扱ったもののようである。乙三洞は森田政信が難波楽天地に昭和初年頃に店を構えた小美術品店で、古玩も扱っていた。米浪庄弌は昭和10年頃「一本だけ残ってましテン」と奥から出されてきた下掲写真のこけしを50銭で購入したという。


〔 21.1cm(大正中期)(米浪庄弌旧蔵)〕

下掲はらっここれくしょん中のもので、昭和11年に橘文策より譲られたものという。やはり関西経由のこけしであろう。


〔 20.6cm(大正中期)(らっここれくしょん)〕


〔 21.2cm (大正中期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

この小原直治といわれるこけしは極めて古風で正統的な遠刈田の姿を偲ばせる作品である。鹿間時夫は「顔は角ばり、手絡は比較的簡単、タッチは鋭く細長い三日月眼に割れ鼻で、表情は頗る張りがあり、甘美かつ格調が高い」と評していた。
  この直治の型には多くの後継工人が挑戦した。佐藤護、佐藤吉之助、佐藤守正朝倉英次、朝倉光洋、佐藤英太郎、我妻信雄、佐藤一夫(遠刈田)小笠原義雄佐藤勝洋などの直治型がある。

〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列

〔参考〕