鎌田文市

鎌田文市(かまたぶんいち:1900~1984)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤勘内/作田栄利

弟子:鎌田孝市/鎌田孝志/鎌田悦子/国分栄一

〔人物〕  明治33年8月28日、宮城県白石市新町の絹糸商鎌田卯作の三男に生まれた。大正3年5月15歳で弥治郎で佐藤勘内の弟子となって木地を習得した。また大正6年頃には、勘内が宮城県の補助金により行われた木地講習会の講師となり、鎌先の傘ロクロ工場に木地挽きロクロを据えて講習を行ったので、このときにも文市は弟子として参加した。文市の他にこの講習会の弟子となったのは、佐藤雅雄、高梨小藤治(大網)、小原軍吉(下ノ原)、高野辰治郎(白石)など10名ほどであった。
大正6年10月、高梨小藤治・佐藤雅雄・鎌田文市の弟子仲間三人で青根まで砥石を拾いに行った帰り、はじめて遠刈田へ寄った。弥治郎に比べ、アヒル・エビ等の木地玩具があまりにも進歩しているのに驚き、それが機縁で大正7年5月19歳で遠刈田の作田栄利(当時21歳)に入門し見習いとなった。住込みで給料なしであった。主に玩具とこけしを習った。大正9年、徴兵検査の後約一年間、作田栄利の弟作田隆と共に仙台の三陸木材工場で木地を挽いた。大正10、11年には、弥治郎の佐藤勘内・伝内のもとで職人として働いた。大正12年春上京。神田錦町三丁目の木工所興津徳蔵方で働き、主に蓋物を挽いた。同年9月の関東大震災にあって仕事が続けられなくなり帰郷、12月まで下ノ原の渡辺幸治郎・幸九郎方に職人として入った。大正12年12月幸治郎の世話で国分栄七の妹さくよと結婚、白石市新町の実家で独立した。大正14年に長男孝市生まれた。同年白石市長町に移った。
昭和14年頃より長男孝市に木地を指導した。孝市もこの頃よりこけしの製作を始めた。
昭和23年に、足踏みロクロから動力ロクロに切り替えた。昭和24年に妻さくよの甥国分栄一が木地の弟子となった。
昭和27年白石市堂場前に移り、以後この地で木地業に従事、こけしも盛んに作った。
一旦独立した国分栄一に、昭和46年からこけしの描彩についても指導を行った。
昭和59年5月19日没、行年85歳。


鎌田文市 昭和16年6月 撮影:田中純一郎

鎌田文市 昭和40年
鎌田文市 昭和40年

〔作品〕  鎌田文市は〈こけし這子の話〉で作者として紹介されてから、一貫してこけしを作り続けたので、その製作期間は極めて長い。しかも作風は非常に安定していて殆ど乱れることはなかった。
下掲の8寸は〈こけし這子の話〉に掲載されたもの、作風は下ノ原の渡辺幸治郎に近接している。おそらく大正12年に幸治郎のもとで働いた当時のものか、あるいは独立して間もない頃の作品であろう。
前髪の横から鬢飾りが描かれ、鬢飾りの後方から半円状のベレー飾りが描かれる。これはこの時期のみの特徴である。

〔24.2cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション 〈こけし這子の話〉掲載のこけし
〔24.2cm(大正後期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〈こけし這子の話〉掲載のこけし

下掲の二本は加藤文成が所蔵していた大正末期のもの、鬢飾りは鬢上端から描かれるように変わっているが、まだ前髪は描かれ、ベレーの後ろ側に髪も描かれている。

〔右より 16.8cm、24.0cm(大正末期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション
〔右より 16.8cm、24.0cm(大正末期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

下掲の鈴木康郎蔵(米浪庄弌旧蔵)および深沢コレクションの2本は、昭和初期の作例。
前髪は描かれず、半円形のベレーの飾りは顔の正面から、ぐるりと6枚描かれる。

〔26.4cm(昭和初期)(鈴木康郎)〕 米浪旧蔵品
〔26.4cm(昭和初期)(鈴木康郎)〕 米浪旧蔵品

こうした初期の弥治郎風木地に描かれた重ね菊の胴模様は、遠刈田修業時代の作田栄利からの影響といわれたこともあったが、現在では渡辺幸治郎の重ね菊が原型という見方に落ち着いている。

〔右より 22.4cm、10.0cm(昭和5年頃)(深沢コレクション)〕
〔右より 22.4cm、10.0cm(昭和5年頃)(深沢コレクション)〕

中屋惣舜は、文市の半円形のベレー飾り(蒲鉾状飾りと呼ぶ人もいる)の描き様で時代鑑別が可能とした。
下図は〈こけし手帖・71〉の「こけしの変遷・鎌田文市」で示された各年代のベレー飾りである。各年代の代表的な作例は〈こけし 美と系譜〉図版110に紹介されている。
ただ、この図の大正期とされるAは、おそらく昭和初期であり、大正期の作は前髪や場合によっては後ろ髪が描かれていたと思われる。

鎌田文市の年代変化
鎌田文市の年代変化 〈こけし手帖・71〉より
A: 大正末期 B: 昭和2、3年 C: 昭和5年頃
D: 昭和8年頃 E: 昭和12年以降 F: 戦後
但し、戦後のものでも復元作には当てはまらない

遠刈田で作田栄利のもとで修業時代にもこけしを作っていたようで、時々遠刈田風の割れ鼻、頭は手絡、胴は菊模様のこけしも作った。白石孝子こけしと呼ばれるものもこうした遠刈田時代の思い出の作であろう。〈図譜〈「こけし這子」の世界〉には昭和9年作の遠刈田風こけしが紹介されている。

戦後も、仕上げは丁寧になったが作風は堅実。昭和40年以降蒐集家の勧めで戦前作の復元や、渡辺幸治郎の型なども製作した。下掲左端の本人古型の復元は、中屋惣舜蔵昭和8年作の復元、昭和40年12月の東京こけし友の会で頒布された。

〔右より 24・3cm 幸治郎型、25.0cm 本人の古作復元(昭和40年)(橋本正明)〕
〔右より 24.3cm 幸治郎型、25.0cm 本人の古作復元(昭和40年)(橋本正明)〕

鎌田文市の修業時代は大正期であり、こけしは主に佐藤勘内と渡辺幸治郎からの影響が大きい。幸治郎も勘内の長兄伝内の弟子であるから文市のこけしは伝内・勘内の父栄治から始まる栄治系列である。

系統〕 弥治郎系栄治系列  鎌田文市の作風は、長男鎌田孝市、孝市の妻女うめ子、孝市長男孝志、孝市長女悦子、孝志の妻女美奈枝が継承している。

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