小塚錠一

小塚錠一(こづかじょういち:1919~2013)

系統:独立系

師匠:海谷吉右衛門

弟子:加藤昭子/星としえ

〔人物〕大正8年3月7日に愛知県名古屋市に商業を営む小塚栄之助、しめの長男に生まれた。9人兄弟で男6人(戦死2人)女3人であった。錠一は復員後に名古屋市で衣料品の卸売り販売の会社を興し、戦後にたねと結婚した。子供も誕生して順調に暮らしていたが、昭和33年に取引先の多い宮城県仙台市に家族で転居した。
昭和40年頃から伝統こけしに興味を持ち集め始めた。特に経営者然とした言動の我妻吉助とは生まれ年が同じ事もあり気が合い、木地の手解きを受ける事となった。また同年代の大賀貞治、酒井正二郎とも親交を深めた。当時、吉助には沢山の弟子と職人がいたので、後継者のいなかった海谷吉右衛門のこけしを継ぐ事を決意して昭和48年より吉右衛門に弟子入りして指導を受け、昭和51年より周松型と吉右衛門型のこけしを銀杏町の工房で製作した。海谷周松、吉右衛門兄弟は戦前から仙台市でこけしを作り、父の周蔵、叔父の善蔵、七三郎は山形県東村山郡高瀬村(昭和29年山形市に編入)出身で明治30年代に青根佐藤久吉に師事した木地師一家である。七三郎は中ノ沢温泉でこけしを残した磯谷直行の師匠として知られている。
小塚は第二次こけしブームの頃に43歳でデビューしたのだが、生活基盤が他にあり、生活のための製作ではなかったので製作量は多くなかったようである。また当時盛んに出版されたガイドブック類に掲載されていないので存在を知らない蒐集家も多かったと思われる。緑書店発行の『伝統こけしハンドブック』(昭和56年7月10日)には掲載されていたが、苗字のルビは「おずか」と誤記されていた。名古屋こけし会では、昭和52年5月に7寸が頒布されたが他のこけし会で取り上げられることはなかった。昭和62年頃から遠刈田温泉の大宮正男に木地を依頼して描彩に専念した。木地が挽けなくなってからは、海谷吉右衛門一門のこけしを後世に残すべく後継者を探したがブームも下火の時期で見つけることは叶わなかった。平成2年に轆轤を処分して、宮城郡利府町南沢に家族で転居した。余生を楽しむ中で近くに住む加藤昭子と星としえを描彩の弟子として育成した。
平成25年4月2日、享年94歳で逝去した。
生粋の名古屋人であったが仕事の関係で度々仙台を訪れる中、風土に魅せられて仙台に移り住み、その後こけしに出合い工人になった異色の人だった。

 

小塚錠一 

〔作品〕こけしは海谷吉右衛門の様式を継承して吉右衛門型、海谷周松型を作った。


〔右より 18.3cm(昭和53年)周松型、18.2cm(昭和55年)吉右衛門型(中根巌)〕


〔30.3cm(昭和55年)(高井佐寿)〕周松型 

〔伝統〕木地の系譜では遠刈田系。こけしは仙台一般型。小塚が継承した海谷吉右衛門は木地の系譜から遠刈田系に分類される場合が多いが、こけしの様式としては必ずしも遠刈田の特徴が顕著ではない。

〔参考〕

  • 中根巌:小塚錠一・加藤昭子・星としえのこと〈木でこ・233〉(令和3年1月)
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