小林吉太郎

小林吉太郎(こばやしきちたろう:1879~1943)

系統:山形系

師匠:小林倉治

弟子:長岡金蔵/鈴木一郎/栗山一太郎/斎藤虎蔵/高崎栄一郎/田中信也/田中一也/堀実/藁科茂/梅津春雄/坂部政次/坂部政雄/石川俊雄/宮島重昭/黒田うめの

〔人物〕明治12年2月3日、山形市十日町の木地業小林倉治、しゅんの四男に生まれる。倉吉、兼吉、吉兵衛は兄、吉治、吉三郎、庄吉は弟である。
吉太郎は南山学校(寺子屋)で教育を受けた後、明治23年に仙台の瓦屋に丁稚奉公に出されたが、酷使に耐えかね1年間で山形に逃げ帰った。翌24年13歳で正式に倉治につき、明治32年までの8年間木地挽の修業をした。
小林家は明治20年ころから旅籠町の勧工場に店を持っようになり、こけしや玩具の多くがここで売られた。明治20年代前半から30年代後半までが、小林一家で最もこけしを多く作った時期であった。「挽くのは倉吉が大人形、吉太郎が中人形、吉兵衛が相人形という具合に分担し、二日も三日も挽き続け、それを倉治がまた何日もかかって面相を描いた〈こけし手帖・35〉」と吉田慶二は記している。吉太郎も倉治の描彩を十分見て過ごしており、この頃よりこけし製作については熟知していたと思われる。
明治33年現役兵として入隊し一時山形に帰ってきたものの、日露戦争で再び応召となり明治39年にようやく帰郷した。
明治40年に東京に出て、浅草八幡町の中島弁次郎木地屋にはいり、弁次郎の婿養子であった俗称「メッカチの丑さん」等ともに働いた。ここでは玩具や国旗の頭などを専門に挽いた。その後、中島木地屋を離れて、台東区下谷竹町や、深川の木地屋を渡り歩き、明治43年に山形に帰郷した。
帰郷後は山形市小橋町で独立開業し、大正6年頃までここで営業した。この時期は薄荷入れの全盛期であり、また山形の北の大火の後には家具や建築用品の注文が多かったので、こけしを作る余裕はほとんどなかった。弟子が四人いたが、はじめの弟子は姓名不明、他は栗山一太郎、斎藤虎蔵、高崎栄一郎であった。栗山一太郎だけはこの小橋町で年期明けした。また、吉田慶二の〈聞書・木地屋の生活〉によると、田中信也、一也兄弟は小橋町時代に吉太郎の所で職人をしたが、最初はほとんど挽けなかったので吉太郎が指導したという。
大正6年5月22日に米沢に大火があり、その復興のため木地製品の需要が増大した。そのため荒井金七の依頼をうけて、弟子の高崎栄一郎と斉藤虎蔵を連れて米沢へ移った。米沢では鍛冶町に落ち着き、弟子たちと復興需要の注文を挽いていたが、元来米沢は機織の盛んな所だったので機業関係の注文も増えて事業は大きくなって行った。そこで長岡金蔵と鈴木一郎の二人を弟子とした。さらに石沢角四郎を山形から呼んで桂町の中沢木地屋に世話したり、佐竹林之助を木下機料店に世話したりして注文をさばくほどであったという。大正7年から10年まで荒井金七もまた吉太郎の依頼でボビン製作を行っていた〈こけし手帖・2〉。
弟子ではないが、堀実はこのころ吉太郎と親しくなり、指導を受けて趣味にこけしを作った。
大正8年から9年にかけての一年半は機業が不振になったため及位近傍の山形県釜淵八敷台にあった丹野九左衛門の木工所に出稼ぎに行っている。弟子の高崎栄一郎、長岡金蔵(明治38年ころ山形生)、鈴木一郎(明治39年ころ山形生)のほか、大宮安次郎も一緒に行った。
大正10年再び米沢東町に移り、機業関係の仕事を続けたが、機業用製品だけで営業は成り立たず、玩具やこけしを挽いて市内や赤湯に出すようになった。この頃の作品が〈こけし這子の話〉に「赤湯」として写真紹介されている。ただしこのとき作者名は知られていなかった。
昭和初年以降は、機業関係の製品と玩具の二本建ての営業が漸次軌道に乗り、こけしも比較的多く作るようになった。やがて住居は仲間町に移した。
昭和5年武井武雄の〈日本郷土玩具・東の部〉で写真とともに、名前も紹介された。このころには春日町にあった石井酒木工所(西須正芳の勤めていた所)等は、吉太郎のところから下請の仕事をもらって営業していた。
昭和10年、秋田市登町の小林鶴次の下で修業した小林友次が職人として入り、また日下源三郎もこれと前後して吉太郎の世話になっている。さらに山形六日町の本家や小林吉三郎、鈴木安太郎の所にも吉太郎の所から注文を入れており、これが吉太郎工場の最も隆盛を極めた時期であった。
昭和13年には坂部政次とその弟政雄も正式に弟子入りしている。
昭和14年61歳のとき、信濃町の米沢航空分工場の木工部で働くこととなり、黒田精四郎、村上元吉等と木管やボビン織機等の撚糸関係の木地製品を作っていたが、丁度このころに第一回のこけしブームが起こり吉太郎はこけし専門で仕事をするようになった。藁科茂や梅津春雄はこの年に入門して、多量の白木地を作り、これに吉太郎、堀実、黒田うめのの三人で絵つけをした。昭和16年には石川俊雄(1925-1945)、同17年には宮島重昭が入門しこれに加わった。製品は行商人の桑原秀雄と竹内義雄が専門に山形、仙台はじめ各地に売り歩いた。このように吉太郎の信濃町時代は挽き手、描き手、売り手と完全な分業、大量生産方式であり、これがその後の米沢の新型業者に少なからず影響を与えることとなった。この結果、米沢は戦後群馬の前橋などとともに新型こけしの主産地となった。
昭和17年胃がんに罹って市内中条病院に入院した。昭和18年2月末にいったん退院したが、間もない昭和18年3月12日4時に没した、行年65歳であった。
米沢時代に吉太郎が育てた弟子や、世話をした木地屋の数は多く、人情味豊かな親方であった。名人肌で奇行に富んだ人だったというが、弟子たちからは非常に慕われていた。仕事場にバラ銭を撒いて、あわてて拾い集める弟子達に「銭より鉋を大事にしろ」と言ったというような逸話も多い。鹿間時夫の工人列伝19〈こけしの旅〉は人間吉太郎の生き様を活写して秀逸である。
入院中は甥の小林栄蔵や弟吉三郎がかけつけ、弟子の梅津、藁科は最後まで吉太郎につき添って世話をした。子供はいない。


小林吉太郎

〔作品〕

下掲は〈こけし這子の話〉図版9に「赤湯 一種」として掲載されたもの。天江富弥が大正10年に赤湯(現在の山形県南陽市赤湯)で入手したという。大正8、9年に山形県釜淵八敷台へ出稼ぎにいってかえり、機業関係の仕事に戻ったがまだ軌道に乗らない時期に、玩具やこけしを挽いて赤湯に出していた時期のものであろう。胴の花模様はこの時期だけの独特な様式で、正面菊が三段に描かれている。


〔 19.4cm(大正10年)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲は〈こけし辞典〉原色版に掲載された中津政雄蔵とはほぼ同時期であろう。やはり玩具やこけしを米沢市内や赤湯に出していた時期のものと思われる。


〔14.7cm(大正12年頃)(鈴木康郎)〕

下掲の天江コレクション収蔵品は吉太郎として最も典型的な作で、山形の小林一家独特の手絡模様と直胴にさらさらと描きなぐったような洒脱な花模様を描く。頂上花は一段と大きく、一般に花の
冠と言われる。また、面相に個性が強く出ており、眼尻が上がり、眼や眉が中心に迫った緊張感のある表情で、眼点の入れ方は初期のものほど鋭い。


〔 20.3cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲の加藤文成旧蔵も細筆ながら表情妖しく、見るものを惹きつけて離さない。


〔 27.5cm(昭和8年頃)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

昭和10年ころより表情漸次柔らかく優しくなり、鋭さと言うより潤いを秘めた表情になる。
下掲の尺のように朴の木にややにじんだ花模様で、幾分太くなった目鼻の表情が艶麗と評価される場合もあった。


〔 30.7cm(昭和12年)(橋本正明)〕

鹿間時夫は、〈こけし鑑賞〉で独特の分類をして見せたが、吉太郎を甘美群ロマン派とし、「紅花のこぼれ散るような満開の情趣と、艶っぽい表情がマッチして、さながら京の舞姫を見るような色感をおぼえる 。」と書いた。


〔右より 33.6cm、17.8cm(昭和14年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

晩年になると吉太郎本人は殆ど木地を挽かず、弟子の木地に描彩のみをしたものもある。また時には黒田うめのや坂部政次が面描し、胴のみ吉太郎が描いたものが吉太郎名義で蒐集家の手に渡ったこともあるようである。

〔伝統〕山形系 父倉治のこけしは未確認であるが、吉太郎はその型を伝承してよく写しているといわれる。倉治の息子達のなかで最も個性の強い作品を作った。その復元を望む蒐集家も多く、また優れた後継作者も続いた。
吉太郎型は甥の小林清次郎が継承し、その長男清、その弟子の阿部正義が継承している。また米沢で吉太郎の指導を受けた梅津春雄や、藁科茂の弟子長谷川正司なども吉太郎型を作る。

〔参考〕

  • 土橋慶三:庶民的な素朴さ 小林吉太郎〈こけし手帖・33〉(昭和35年)
  • 土橋慶三:木地屋列伝(2)小林吉太郎〈こけし手帖・80〉(昭和42年)
  • 鈴木康郎:例会ギャラリー・小林吉太郎のこけし 〈こけし手帖・546〉(平成18年)
[`evernote` not found]