小林清蔵

小林清蔵(こばやしせいぞう:1895~1960)

系統:山形系

師匠:小林倉治/小林シュン

弟子:小林誠太郎/小林忠次郎

〔人物〕明治28年1月12日、山形市旅篭町の木地業小林倉吉の長男としてに生まれる。明治40年13歳で尋常小学校を卒業した後、父の倉吉について木地の修業を開始した。
明治40年代に入ると山形の木地の需要は薄荷入れが中心となっていたので、清蔵も薄荷入れを主に挽き、こけしはほとんど作らなかった。ただ毎年勧工場で催される初市にはかならずこけしを出し、清蔵もこけしを挽いて祖父倉治が専門に絵つけをしていたという。
その後も倉吉の下
で働いていたが、大正13年30歳の時に工場一切をまかされるようになり独立した。こけしはこのころから本格的に作り始め、他の玩具と共に数多く作った。清蔵は祖母シュンから祖父倉治の描彩について手をとるようにして教えられたというから、倉治型を忠実に模したものと思われる。昭和3年〈こけし這子の話〉で紹介された倉吉名儀のこけしは清蔵の初期の作である。その後〈 木形子異報〉で名前を紹介され、〈こけしと作者〉で写真紹介されて以来、清蔵名儀でこけしを出すようになった。昭和15年、第1回こけしブームに際しては、こけしを多量に作り、百貨店や展覧会等には必ず出品するようになったので、清蔵はこけしと玩具専門に行うようになった。こけしと玩具の割合は三対七で玩具のほうが多かった。当時の玩具の中には独楽類、犬、ウサギ、カメ、達磨落とし、輪投げ、臼等があった。
戦後は長男誠太郎が一人前となったため、ロクロに入らず、誠太郎の木地に20本ほど描彩したのみである。その他の清蔵名儀のこけしはすべて誠太郎の代作であった。昭和35年慢性腎臓病に心臓衰弱が加わり他界した。行年66歳。

小林清蔵
小林清蔵  撮影:橘文策

小林清蔵  昭和31年7月

小林清蔵  昭和31年7月

〔作品〕従来清蔵のこけしが倉吉名義で世に出ていたこともあって、両者と混同されることが多かったが、〈こけし研究ノート・3〉でかなり整理された。ほとんどの場合にはに清蔵は割れ鼻の上がくっつき、倉吉ははなれている。一方で〈こけし手帖・121〉によると、胴上部向かって右側に描かれる花弁にも下図のように筆法上の差異があるという。ただしこの鑑別と割れ鼻のつき方での鑑別で矛盾するものもあり、絶対的ではない。


現在残っている倉吉名義の作品は大正末期以降のもので、正未昭初の作例は下掲の〈こけし這子の話〉に掲載のものが代表的である。倉吉として掲載されたが、割れ鼻の上端がくっついており、今では清蔵とされている。しかし、右の二本は上掲の花弁描法でいうと倉吉であり、倉吉説を採るものもいる。この〈こけし這子の話〉の3本では、いわゆる新様式、旧様式の二種類が紹介されている。新様式は左端の黒頭で、胴を黄色に塗り、赤と緑で交互に重ね菊を描いている。完全な蔵王高湯の影響で、当時蔵王高湯から山形に下ってきた職人もしくはこけしからの影響と思われる。


〔右より 28.5cm、17.0cm、25.8cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲右端も天江コレクションの新様式と同様で、製作年代も同時期であろう。この黒頭の新様式は昭和5年以降はほとんど作らなくなった。
中央の大頭は、大胆なバランスで、見ごたえのある作となっている。これは鼻上端もくっつき、花弁の右も下に垂れて完全に清蔵の描法となっている。この時期から左端の昭和10年頃にかけてが、面描細筆かつ硬筆で、清蔵の特徴的な表情のこけしであった。

〔右より 16.8cm(大正14年)、24.5cm(昭和初期)、19.0cm(昭和10年頃)(鈴木康郎)〕
〔右より 16.8cm(大正14年)、24.5cm(昭和初期)、19.0cm(昭和10年頃)(鈴木康郎)〕

下掲は〈こけし辞典〉で割れ鼻上端がやや開いているとして倉吉の項目に紹介された。しかし胴の花弁右の描法は長く下に垂らしてあり清蔵と見るほうが妥当と思われる。


〔19.0cm(昭和初期)(西沢笛畝旧蔵)〕

昭和10年以降になると頭部はやや球状に近くなり、表情の鋭さは薄れていく。


〔22.7cm(昭和13年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔24,8cm(昭和14年)(高井佐寿)〕

系統〕山形系

清蔵の作風は息子の誠太郎、忠次郎が継承した。

〔参考〕

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