今晃

今晃(こんあきら:1953~)

系統:津軽系

師匠:長谷川辰雄/岡崎斉司

弟子:

〔人物〕昭和28年4月23日 秋田県大館市の公務員今一郎の長男に生まれる。高校時代までは陸上競技をやっており、図画工作は得意ではなかった。昭和43年高校3年の9月に、「大湯のこけしの継承者がいない」という新聞記事を読んで、また以前より「自然と生きたい」という希望もあったので、その日のうちに工房を訪ねた。学生の間は土日に工房へと通い、卒業と同時に住み込み就職をした。 昭和49年12月末に佐々木金一郎に弟子入りが決まっていたが、弟子入り前日(昭和50年1月30日)急逝した。葬儀の時に長谷川辰雄に弟子入りが決まった。 昭和51年3月下旬まで大鰐の金一郎作業場で、辰雄と一緒に製作を行った。同年4月に辰雄とともに弘前市門外町に移住した。辰雄型こけしを製作するが、師匠には「ヘタクソ!」と言われ、また 「署名はきちんと書くように」と言われたので習字を習いはじめ、署名を楷書体で書くようになった。
昭和52年6月、長谷川辰雄から弟子あがり(卒業)となり、同年7月より弘前市和徳の本田功の工房でこけし製作を行うようになった。本田功には「署名は弘前で作るこけしだから、弘前と入れた方がよい」と言われ、昭和53年3月まで「弘前今晃」と署名した。昭和 53年4月、「木地挽きを本格的に基礎から行いたい」と、鳴子の岡崎斉司に弟子入りをした。
昭和56年10月、岡崎斉司から弟子あがりとなって弘前に戻り、11月より弘前市内金属団地に住むことになった。弘前市の「こけしの館」にて、長谷川健三、本田功と一緒に、木地玩具などの製作を行った。昭和 57年1月、蒐集家の大浦泰英より注文を受け、ペンシルこけし写しを作ったことがある。 昭和57年9月、結婚を機に禰宜町に移住し、自分のロクロを設置、独立した。しかし、電気工事が間に合わず、電気が通じるまで間、木を削った鉈こけしの製作を行った。禰宜町こけし初作は11月であった。 昭和58年5月、嶽温泉開拓地に移住した。電気工事の遅れでロクロ設置ができず、嶽での初作は6月末になった。

平成15年仙台のカメイ美術館で「第1回:今晃の世界」展が開催され、以後カメイ美術館、津軽こけし館で継続的に「今晃の世界」展が開催されている。


妻女の綱とりで木地を挽く今晃 平成26年7月 撮影:中根巌

 

〔作品〕


〔18.2cm(昭和47年9月)(中根巌)〕小松五平の型


左より 30.5㎝(昭和50年12月)、30.5cm(昭和51年6月12日)、24.3cm(昭和52年)(沼倉孝彦)〕


〔18.2cm(昭和52年4月)(坂入良喜)〕金次郎型

下掲は鳴子岡崎斉司のもとで修行していた時の弟子上がり直前の作。


〔18.0cm(昭和56年8月30日)(沼倉孝彦)〕

 


〔18.2cm(昭和57年7月)(坂入良喜)〕辰雄型


〔16.1cm(昭和58年2月)(坂入良喜)〕蕨模様


〔18.2cm(昭和58年7月)(坂入良喜)〕嶋津型


〔18.2cm(昭和58年9月)(坂入良喜)〕


〔左寄り 21.6cm(昭和58年7月)、21.6cm(昭和60年1月)、12.5cm(昭和60年1月)(沼倉孝彦)〕


〔18.5cm(昭和58年頃)(橋本正明)〕


〔21.3cm(昭和60年7月)(坂入良喜)〕嶋津型

三上文蔵型のこけしを作ったこともあった。


〔24.0㎝(平成2年8月)(沼倉孝彦)〕

 〔伝統〕鳴子系、津軽系

〔参考〕

  • 今晃の鉈こけし
    ろくろを用いず、鉈で木を削ったものに描彩したものを作ることもあった、「鉈こけし」と呼んでいる。

    〔24cm(平成3年1月26日)、13.8cm(平成3年8月4日)、18.3cm(平成22年9月17日)、17.0cm(平成26年6月27日)(沼倉孝彦)〕

  • 坂入好喜:木おぼこ・今晃
  • 斎藤純広:今晃の世界
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