斎藤伊之助

斎藤伊之助(さいとういのすけ:1893~1948)

系統:肘折系

師匠:佐藤文六

弟子:

〔人物〕 明治26年山形県最上郡南山村肘折の農業斎藤永平の長男に生まれる。12歳の時、古口の寺へ小僧として出されたが、明治40年15歳で肘折に戻り、佐藤文六について木地の修業を行った。当時尾形政治は斎藤永平の家の下屋を木地工場とし、佐藤文六らを使って木地を生産していた。伊之助は文六が及位に移る明治45年まで文六ととも働き、その後も大正2年頃までここで木地に従事した。
大正5年、事情があって北海道に渡り、似湾(勇拂郡穂別村)で家具製造に従事、大正9年に肘折に戻り、尾形政治が開設した最上木工場で職人として働いた。飯櫃等を得意として挽いていたという。昭和4年最上木工場が閉鎖されると、再び北海道に渡り、釧路で2、3年ほど働いた。肘折に戻って昭和9年頃より昭和16年ころまで冬季間のみ毎年鹿沼の小林木管製作所へ出稼ぎに行き、織物用の木管などを挽いた。昭和15年歳末刊の〈こけし・第11号〉の秀島孜稿「産地瞥見」で作者として紹介されたが、休業中として写真は掲載されていない。しかし、このあとこけしの注文が来るようになり、時々作ったものが蒐集家の手に渡るようになった。肘折で作ったもの、鹿沼で作ったものがある。写真初出は〈古計志加々美〉である。この時期、肘折では主に農業に従事していたため作品数は必ずしも多くはない。
昭和23年2月23日胃がんのため56歳で没した。

〔作品〕下掲は現存する伊之助で最も古いとされる一本。及位の佐藤文吉が新庄の知人宅で見つけて譲り受けてきたもの。おそらく昭和4年渡道する前の最上木工所時代の作と思われる。古式の笑いを秘めた快作であった。文吉はこけし夢名会のためにこのこけしの復元をしたことがある。


〔20.5cm(昭和初期)(菊本栄次)〕佐藤文吉旧蔵

下掲はおそらく昭和9年ころ肘折に戻った直後のものと思われる。頬の赤い大きな彩色が最上木工所時代のものと通づるところがある。


〔22.1cm(昭和9年頃)(高井佐寿)〕

伊之助として比較的多く見られるのは、昭和16年以降のもので肘折で作ったもの、鹿沼で作ったものがある。全体にフォルムは細長くなる傾向があった。

〔22.4cm (昭和16年頃)(深沢コレクション)〕
〔22.4cm (昭和16年頃)(深沢コレクション)〕

〔9.1cm(昭和17年)(寺方徹旧蔵)〕
〔9.1cm(昭和17年)(寺方徹旧蔵)〕

戦後、昭和22年ごろに小寸を50本ほど作って肘折の尾形政治商店に出したことがあった。翌23年2月に亡くなったので戦後の製作はこの時期だけである。
佐藤文六の弟子であったが、必ずしも文六の様式をそのまま踏襲したわけではなく、伊之助としての個性をしっかり発揮した作品だった。

〔伝統〕肘折系文六系列

〔参考〕

  • 箕輪・橋本・白鳥:頒布こけし解説〈夢名会だより・第一号〉(昭和43年9月)
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