佐久間浅之助

佐久間浅之助(さくまあさのすけ:1847~1906)

系統:土湯系

師匠:佐久間弥七

弟子:佐久間由吉/佐久間粂松,/佐久間七郎/佐久間米吉/佐久間虎吉

〔人物〕 弘化4年12月22日、福島県信夫郡土湯村字下ノ町の稲荷屋佐久間弥七、タカの長男に生まれる。戸籍表記は淺之助。母タカは二階堂藤四郎の二女。稲荷屋は祖先の作兵衛の時代に二本松往復時、狐に助けられたのにちなみ命名していたが、浅之助の代に天理教を信仰したため屋号を変え、下ノ町の東端(海側=湊口)にあったことに因んで湊屋とした。父弥七の代に土湯の 分限者となった。
浅之助は、幼少時より学を好み教養が深かった。土湯第一級の文化人で其月と号し句に長じた。
 かき合すそでや余寒の馬の上
 風音のこずえに残る余寒かな
 身不肖も君らもまじる花見かな
等の句が土湯小学校保存の郷土誌に残っている。
土湯下ノ町28番地新店に大きな家があり二階の入口が上ノ町にあった。村会議員を二期つとめた。土湯二瓶儀助の二女である妻ノエとの間に、由吉、粂松、常松、フジ、キチ、源六、七郎、米吉、ハナ、虎吉の七男三女をもうけた。男子はいずれも木地業を習い、湊屋は土湯木地業の中心的存在となった。
浅之助の弟の作蔵は山根屋渡辺岩治郎の婿養子、民之助は泉屋斎藤卯三郎の養子となった。湊屋は副業として農耕、製炭、養蚕をした。
明治10年に東京上野で第一回内国勧業博覧会が開催され、各地の産物の出品を求められたとき、名主の阿部栄七が出品者となって、佐久間浅之助等が製作した木地製品(茶入れ 茶臺、菓子入、茶盆、辨當、糸巻、芥子入、三重盃、食膳、漏斗、徳利袴、烟草入、椀、燭台、碁筺、碁盤足)を出品している。

第一回内国勧業博覧会出品目録(明治10年)

また、明治14年に上野公園で開催された第2回内国勧業博覧会にも、佐久間浅之助は茶入、菓子入、燭台等を出品している。


第2回内国勧業博覧会出品目録 福島県土湯

明治18年、膽澤為次郎が足踏みロクロの指導をしたとき、長男由吉を弟子入りさせたが、浅之助自身は父弥七が没する33歳のときまで父より木地技術の伝習をうけ、二人挽き時代の土湯木地業の指導的立場にあった。こけしは父弥七ゆずりというより彼の創意が加わったといわれ、米吉によると面描は土湯一であった。その目に特徴があったので、湊屋の「でこ」は「ねむり猫」といわれた。胴木地はマンサク、頭はビヤベラを用いた。
性質温厚で物静か、雅量深く感性の鋭い人であり、よく酒をたしなんだ。明治23年の大洪水の打撃を取り返すために木材事業に手を出し、家屋田畑を抵当に入れ買いつけた大量の材木が明治36年の大洪水の際、荒川上流の堰を決壊して流出、再起不能な経済的打撃をうけた。この天災による損失の後仕末は佐久間浅之助、阿部善治郎、西山濱吉の三人で分担したが、結果として湊屋一族は全部土湯より去ることになった。
明治38年11月4日、浅之助は菅野徳次の世話で川俣町中丁に移った。菅野徳次は川俣の機業用木管類の仕事を湊屋に仲介していた関係で、湊屋の一家を川俣に招いた。七郎、米吉が先発し、最後に浅之助は虎吉15歳をつれて川俣に移った。日露戦争の凱旋歌が流れる中の川俣落ちであったという。
明治39年4月28日(旧暦4月5日)没、行年60歳。馬に蹴られたのが原因であったという。土湯の名家に生まれ、村会議員を務め、教養も高い人物であったが、大洪水による損失は大きく、一家は土湯から離散して厳しい晩年を送った。
土湯の墓地には佐久間浅之助(梅渓其月信士)を偲ぶ石碑が湊屋有縁の人たちによって建てられている。其月は浅之助の俳号から採られている。

浅之助を偲ぶ碑

〔作品〕伝佐久間浅之助とされるこけしが十数本確認されている。最初に浅之助と鑑定されたのは米浪庄弌旧蔵の二本であるが、米浪庄弌はこれを日本橋の品川山三佐野健吉から入手した。土湯系であるが作者は不明で、昭和15年の〈これくしょん・36号〉「こけし三十六人集」では浅之助の従兄弟西山弁之助として写真紹介された。翌16年の〈こけし人形図集〉では佐久間粂松として掲載された。これを浅之助としたのは土橋慶三で〈こけしの美〉巻頭原色版に掲載し、「明治20年から30年にかけての浅之助の一番脂の乗ったころのものと推定される。」と解説を書いた。一説には虎吉の証言があったともいうが定かではない。以後このこけし、および同様の筆致の土湯古品は佐久間浅之助で通用するようになった。
現在、佐久間浅之助と称されるこけしで写真掲載可能な12本を以下に示す。
現存する佐久間浅之助とされるものを比較検討すると、次の三種に分類される。

  1. 首が胴に嵌め込まれている。胴上部は赤のロクロ模様、下部は緑か紫のロクロ模様。
    米浪庄弌旧蔵、木村嵩旧蔵、岩下祥児旧蔵、板祐生旧蔵、文部省資料館旧蔵がこれにあたる。
  2. 胴からの突起が首に差し込まれる。ロクロ模様は赤紫赤紫、あるいは赤緑赤緑と交互(二回の繰り返し)。
    旋盤で挽かれた形跡がある。
    加藤文成旧蔵、稲垣武雄旧蔵、中屋惣舜旧蔵、植木正子旧蔵がこれにあたる。
  3. 構造はB型と同じ。面描の筆法がやや大振りになる。ロクロ模様は赤紫の三回の繰り返しになる。  
    ヤフオク出品がこれにあたる。


Type A 〔16.0cm(カメイ美術館)、18.2cm(谷川茂)(明治期)〕米波庄弌旧蔵
品川山三佐野健吉から入手したもの。


Type A 〔17.0cm(明治期)(相良都義)〕 木村嵩旧蔵
胴背に「飯坂温泉コゲシホーコ」の墨書がある。


Type A 〔18.2cm (明治期)(岩下祥児旧蔵)〕柏崎痴娯の家収集品

〔18.2cm(明治末期)(板裕生旧蔵)〕
Type A 〔18.2cm(明治期)(板祐生旧蔵)〕
胴底に鉛筆で「常陸浪江」の記入がある。


Type A 文部省資料館旧蔵(現 国立民族学博物館所蔵)の二本 撮影:中根巌


「文部省資料館旧蔵」の二本(頭部) 撮影:中根巌
右のものにはかせが描かれていない。


Type B 〔21.5cm(明治期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成旧蔵
これも品川山三で入手したものと言う。


Type B 〔21.2cm(明治期)(橋本正明)〕橋元四郎平、稲垣武雄旧蔵
胴底には旋盤と思われる二本爪の跡があり、「福島」という墨書がある。稲垣武雄は本郷のフヂヤ郷土玩具店でこれを求めたという。


Type B 〔 18.0cm(明治期)(中屋惣舜旧蔵)〕
差込の首を抜くと胴からの差込の突起中央に旋盤でセンターを押さえた穴が確認できる。


Type B 〔21.2m(明治期)(西田記念館)〕 植木正子旧蔵
眉や目に上描きがあるかもしれない。


Type C 〔17.5cm(明治期)〕 ヤフオク 平成29年10月出品
木地の形はType Bに近いが、胴にふくらみがあり胴裾がややすぼめられているのが他とは異なる。

 
Type C 〔17.0cm(明治期)〕 ヤフオク 令和2年3月出品
頭頂蛇の目は紫、胴背下部に「飯坂」のレッテルが貼られている。首は頭部への差し込み、胴底には旋盤と思われる二本爪の跡があり、構造はType Bと同じである。

さて次にこのA、B、Cの三つのTypeが同じ作者かどうかと言う議論であるが、現在では作者は同一人であろうと考えられている。その根拠は、面描の基本的な要素に共通点があるからである。
形態には嵌め込みや差し込みと違いがあるが、下図の面描の基本要素は共通している。

浅之助の顔の要素

特に鼻の描法は、右の線を垂直に降ろして、左を「し」の字状に描くやり方が特徴的であり、ABCに共通している。口の湾曲線を重ねる形もほぼ共通している。
浅之助は目の描彩をするときに、「下瞼から描いてその後で上瞼を描き加える。眼点は水平に両瞼の間に入れるが、場合によっては塗りつぶすようにたたいているとも見えた」という。これをいわゆる「つぶし眼」(別称:ねむり猫)というが、ほぼこれらのこけしの眼はその描法になっている。

ABCのTypeが同一作者として、その作者は果たして佐久間浅之助であろうか。 いまこの作者については三つの説がある。

1. 佐久間浅之助
2. 小幡末松
3. 佐久間七郎

小幡説の根拠は、〈古計志加々美〉に出ている小幡末松の表情に似ていること(特にType C)、福島の記入のものがあること(Type B)等であり、〈こけし辞典〉でも鹿間時夫は「加藤蔵品は一説には小幡末松ともされ、研究の余地がある。」と書いた。ただ末松説の難点は、〈古計志加々美〉の末松のかせの描き方が全く異なる点である。

佐久間七郎説は、伝浅之助に飯坂、福島、浪江という記入のあるものがあり、これらの土地全てで明治末から大正初めにかけて木地を挽いたことがあるのは七郎だけであること、また鯖湖式の差込のこけしも存在し、さらに旋盤で挽かれた木地のものもある。七郎であればこの木地形態は可能であることなどが論拠となっている。七郎説については〈木人子室〉「特別クイズ:作者は誰か?」で議論されている。
一方浅之助の場合は、水害後の処理に奮闘し、追い討ちの木材流失でさらに打撃を受けて、結局建て直しが困難になってしまう。そしてあわただしく土湯を離れて、その5ヶ月後の明治39年4月にこの世を去っているので、浅之助の製作可能期間は、残る伝浅之助こけしの様式の多様さと、記入された産地名の多様さに較べてあまりにも短いので不自然であるというのも一つの論拠になっている。また川俣に招かれた理由が機業用の木管挽きであったから、温泉地でもない川俣で玩具を作る余裕も理由もなかったであろう。
顔全体の七郎の印象は、伝浅之助とはかなり違う。復活した七郎の眼がつぶし眼になっていないのが印象の違いを生じさせているが、一方で復活初期の七郎の口や鼻等の細部の筆法はほとんど伝浅之助と同じである。
もしこれらの伝浅之助の作者が七郎であったとしてもその製作年代は明治末から大正初期の頃で、現存する土湯こけしとしては最も古い部類のものである。

真の作者が浅之助かどうかはともかく、ここにあげたこけしは「伝浅之助と称すべきこけし」として既に認知されている。また土湯本来の正統的な要素を全て兼ね備えており、そうした意味では土湯系のこけしの基準となるこけしでもある。
鹿間時夫は伝浅之助を称揚して「こうした表情を江戸ロマンティシズムの余剰として限りなく愛するものである。胴の彩色は時代のために木地にすっかり沈潜してしまった。ぼけて、さびて、古九谷のように、甘くかなしい。まして浅之助と言うハイブロウなインテリで、晩年落魄して郷里を去った悲劇の主人公ときては、ことに一層痛切である。愛は時間を超越して残る。浅之助が童子に残した愛のかたみもそうである。」〈こけし鑑賞〉と書いた。
伝浅之助は江戸から明治期にかけて作られていた古土湯の木でこを偲ぶことができる貴重な作品であり、また貴重な資料である。

系統〕 土湯系湊屋系列
浅之助型は三女ハナの孫の渡辺和夫や虎吉の長男二代目虎吉が継承した。

〔参考〕

 

 

 

 

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