佐久間七郎

佐久間七郎(さくましちろう:1885~1954)

系統:土湯系

師匠:佐久間浅之助

弟子:

〔人物〕明治18年4月1日、福島県信夫郡土湯村字下ノ町の木地業湊屋の佐久間浅之助、ノエの五男に生まれる。〈こけし辞典〉記載の生年月日は弟米吉と混同しており誤りである。長兄由吉、以下粂松、常松、源六の兄が居り、弟に米吉、虎吉がいた。
父浅之助について木地を修業し、挽いたこけしを父浅之助が面描していた。
明治36年の大水害で湊屋は経済的に大きな打撃を受け、一家は土湯を離れることとなった。明治37年11月20歳で土湯を出て、菅野徳次の世話で川俣中丁に移った。ここで深沢ラクと結婚、しばらくして浪江に移り、木地工場を開いた。
大正の初年頃には飯坂鯖湖の渡辺角治のところへ行って盆挽き職人をした。このころ角治は道路で滑って転んだのがもとで骨盤カリエスを病んで寝ていたが、大石与太郎と高橋忠蔵が徒弟として働いており、彼らと共に働いて盆挽きの技術を身につけた。また浪江に帰って働いている間にも、しばしば川俣の佐久間粂松や福島の佐久間由吉のところへ行って職人待遇の賃仕事を行なった。
昭和12年由吉のところで、こけしを製作したのが復活初作で、それ以後数年間七郎のこけしは由吉経由で収集家の手に渡った。名前は知られていたがこけしが写真で紹介されたのは〈古計志加々美〉が最初である。
昭和29年10月19日岩手県西磐井郡油島村大字蝦島字蒲の脇の長女チヨの嫁ぎ先で没した。行年70歳。男の子はなく、三女があった。
 

〔作品〕鹿間時夫は「らっきょう頭に割に稚拙味のある目鼻を描き、赤青紫のロクロ線の機械的な対比の目立つ物が多い。目は浅之助ゆずりの下瞼の切れたものだが、下瞼が比較的直線的で、目も相対的に大きい。小山コレクション〈美と系譜〉は珍しく緑波線や赤電光線のある米古風のもので、目小さく最晩年のものと思われる。兄弟中最も稚拙素朴である。〈こけし辞典〉」と解説した。〈こけし鑑賞〉においても稚拙味を指摘していたが、特に下掲右端のように初期の面描は部分的に父浅之助と極めて近く筆滑らかで洒脱である(面描の部分比較)。
一説に鯖湖、川俣、福島、浪江で木地を挽いてこけしを製作した七郎がいわゆる浅之助こけしの作者であるという推定がある。浅之助として伝わるものには飯坂、福島、浪江という記入のあるものがあり、また鯖湖式の差込のこけしも存在し、さらに旋盤で挽かれた木地のものもある。水害後あわただしく土湯を去って、その5ヶ月後に死んでしまう浅之助の製作可能期間は、残る伝浅之助こけしの様式の多様さと、記入された産地名の多様さに較べてあまりにも短いのである。
顔全体の印象は復活初期の七郎でも、伝浅之助とはかなり違う。一方で口や鼻等の細部の筆法はかなり近い。
少なくとも七郎は、浅之助とかなり近いところからこけしの製作を始めていたのだろう。


〔右より 19.5cm(昭和13年)、15.3cm(昭和15年)(中屋惣舜旧蔵)〕

下掲は西田記念館の二本で、右端は名和コレクション、〈こけしの美〉に単色で掲載されたもの。


〔右より 22.7cm(昭和16年頃)名和好子旧蔵、17.9cm(昭和15年頃)西田峯吉旧蔵(西田記念館)〕

昭和17年以降になると木地の形態もやや変わり、ロクロ模様も機械的になって、面描もこじんまりとしてくる。


〔 25.1cm (昭和17年)(高橋五郎)〕

〔伝統〕土湯系湊屋系列

〔参考〕

[`evernote` not found]