佐藤伊太郎

佐藤伊太郎(さとういたろう:1869~1937)

系統:津軽系

師匠:佐藤伊助/佐藤太左衛門

弟子:佐藤孝蔵

〔人物〕 明治2年(月日不明)、青森県津軽郡山形村温湯の木地業佐藤伊助の長男に生まれた。津軽の木地業は古く藩政時代にさかのぼり、温湯には8軒の木地屋が居たといわれる。佐藤家はその一つで代々太左衛門を名乗り、6代前の祖が嶋津の祖について木地を学んだのが始まりという。伊太郎も祖父太左衛門、父伊助について木地を習得した。主な製品は、杓子、柄物や独楽などの玩具であり、温泉の土産物であった。温湯で伊太郎がこけしを作ったかどうかは定かでない。盛秀太郎は温湯時代の伊太郎がこけしを作ったのも店頭に並べたのも見たことはないと言っていた。
昭和6年に弘前市在府町、通称ボサマ丁に移る。
昭和7、8年に木村弦三の勧めでこけしを製作した。昭和10年3月に発行された木村弦三著〈陸奥乃小芥子〉の表紙は、孔版画家板祐生による佐藤伊太郎のこけし2本が図案として採用されていた。
昭和12年12月31日(旧暦11月29日)没、行年69歳。

〈陸奥乃小芥子〉表紙に描かれた伊之助こけし
〈陸奥乃小芥子〉表紙に描かれた伊太郎のこけし

平成12年2月に東京銀座の伊東屋で開催された板祐生の孔版画展。 〈陸奥乃小芥子〉の図案のために木村弦三から送られたこけしも並べられた。 右2本が表紙となった佐藤伊太郎。
平成12年2月に東京銀座の伊東屋で開催された板祐生の孔版画展
〈陸奥乃小芥子〉の図案のために木村弦三から送られたこけしも並べられた。
右2本が表紙となった佐藤伊太郎。

〔作品〕 昭和7、8年にどのような経緯で作り始めたのか不明であるが、その製作開始にはおそらく木村弦三がかなり介在していたと思われる。木村弦三は、こけし、土偶・紙人形、凧に広く興味を持ち、伝承芸能の研究・採譜保存・継承にも努めるなど、滅び行く文化の復興と保存に強い熱意を持っていた。明治中期まで温湯に確かにあったと木村弦三が古老から聞いていた「長おぼこ」の復興を、当時最長老であった明治2年生まれの伊太郎に期待しただろうと思われる。伊太郎は、斎藤幸兵衛より21歳、盛秀太郎より26歳年長である。
斎藤幸兵衛は、昭和7年に温湯より大鰐の佐々木金次郎方に身を寄せ、さらに昭和8年秋に伊太郎が居た弘前市の東町に転居している。
その意味では伊太郎のこけしと、幸兵衛のこけしは呼応しているところがある。
鹿間時夫は〈こけし辞典〉で伊太郎には「筆致幸兵衛と一致」するものがあり、「たぶん伊太郎木地に幸兵衛が描いたものであろう」と言っている〈こけし手帖・87〉。
おそらく失われた「長おぼこ」を追い求める木村弦三が弘前に居て、そこに佐藤伊太郎、斎藤幸兵衛が現れて、何らかの経緯があった中で、伊太郎のこけしも、幸兵衛のこけしも出現したと思われる。あるいは伊太郎の「長おぼこ」の記憶が、かろうじて幸兵衛の「長おぼこ」を産み出したのかもしれない。そして、盛秀太郎が後年に作る「長おぼこ」も幸兵衛のものを原型として生まれたのであった。

佐藤伊太郎のこけしには少なくとも二種の面描のタイプがある。一つは幸兵衛と極めて近い面描で目は鯨目のように描かれているもの、たとえは〈こけし 美と系譜〉図版24の矢内健次蔵24.3cm、〈こけし時代・11〉206-207ページの左4本(木村弦三コレクション)などである。これらは鹿間時夫の言うとおり幸兵衛が面描を行ったものかもしれない。
二つ目は、それを模したような面描ながら、眉は太く、やや筆致がぎこちなく稚拙なもの、たとえばここに掲載した板祐生旧蔵(右側)、植木昭夫蔵、深沢コレクションなどである。描いた時期が違うのかもしれないが、おそらくは描彩者が前者とは別人だったのであろう。

下に掲載の2本は〈陸奥乃小芥子〉の図版を依頼するにあたって、木村弦三から板祐生に送られたもの、上掲の〈陸奥乃小芥子〉表紙は、この2本に基づいて図案された。
木村弦三が伊太郎から求めたこけしである。

〔右より 24.3cm、9.1cm(昭和8年)(祐生出会いの館) 板祐生収蔵品
〔右より 24.3cm、9.1cm(昭和8年)(祐生出会いの館) 板祐生収蔵品

下の小寸は、面描また異質、通常眉は太く描かれるがこれは全体に細いタッチ。同じ3寸でも深沢コレクションのものとはかなり差がある。板祐生のところに送られた上掲の小寸物の方とほぼ同様である。

〔9.3cm(昭和8年)(橋本正明)〕
〔9.3cm(昭和8年)(橋本正明)〕

下掲の西田記念館蔵の5寸は、〈こけし時代・11〉に載った木村弦三蔵に近い作風、眉は太くなく、眼は鯨目で、いわゆる幸兵衛風の面描と言われる手である。
伊太郎自体が現存する作品の数は多くないが、その中でも、この幸兵衛に近い作風の伊太郎は数が少ない。

〔15.2cm(昭和8年)(西田記念館)〕
〔15.2cm(昭和7~8年)(西田記念館)〕

下掲の西田記念館蔵8寸、植木昭夫蔵、深沢コレクションは、眉が太く、第二の手に属するもの。

〔24.2cm(昭和8年頃)(西田記念館)〕
〔24.2cm(昭和8年頃)(西田記念館)〕

〔25.5cm (昭和8年)(植木昭夫)〕
〔25.5cm (昭和8年)(植木昭夫)〕

〔9.3cm(昭和8年ころ)(深沢コレクション)〕
〔9.3cm(昭和8年)(深沢コレクション)〕

佐藤伊太郎の現存こけしの製作年代は昭和7年から9年ころといわれている。伊太郎60代後半のごく限られた期間の製作であったが、明治中期に「長おぼこ」が実在したとすれば、それを正確に記憶にとどめ得た唯一の工人でもあった。製作期間が短かったので、現存のこけしの数は多くはない。

系統〕 津軽系温湯亜系 息子に孝蔵がいて一時期ともに木地を挽いていたようであるが、伊太郎の没後転業した。ただし伊太郎の型は、温湯の佐藤善二、その弟子小島俊幸阿保六知秀笹森淳一、そして阿保正文らが継承している。

〔参考〕

  • 木村弦三:佐藤伊太郎〈陸奥乃小芥子〉私家版(昭和10年3月)
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