佐藤菊治

佐藤菊治(さとうきくじ:1895~1970)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤重吉

弟子:佐藤忠/佐藤博典

〔人物〕 明治28年5月18日、宮城県柴田郡青根温泉の旅館業佐藤菊治郎・さいの長男に生まれる。菊治郎の父は青根佐藤重右衛門であり、菊治郎の姉ゆのの婿養子に入ったのが、遠刈田の周右衛門・菊治(先代)の弟重太郎であった。従って菊治と周右衛門の子供たち、周治郎・寅治・直助・直治等は義理の従兄弟にあたる。小学校卒業後、大正2年佐藤重吉につき木地修業、重吉は菊治(先代)の次男であり、弟に三男治平がいた。また菊治の長姉むめよが重吉に嫁いでいた。肘折に行った鈴木幸之助の母は重太郎の娘であり、菊治の従兄弟である。幸之助もまた重吉について木地を学んだので、菊治とは兄弟弟子でもある。菊治は蔵王高湯へ行って修業もしたという。
大正年代に独立し、自家にロクロを据えて盛んに挽いたが、不況の波をかぶって苦労した。それでも青根では菊池孝太郎と共に最後まで努力して木地業を続けた。昭和7年に青根木工組合を結成し、孝太郎や佐藤貢と共に働いたが、他産地の製品に押され三年で解散を余儀なくされた。因みに佐藤貢は重太郎、ゆのの孫に当たる。
その後菊治は米穀商に転じ、その副業に木地を挽いた。昭和5年〔日本郷土玩具東の部〕で写真紹介され、以後も収集家の注文には応じたので、収集界にはなじみの深い工人となった。
戦後のこけし製作はむしろ盛んで、五男健治、六男忠と共に自家工場で挽いたが、昭和23年より動力ロクロに換えた。足踏時代には、盆、茶櫃、柄杓等を主として挽いていた。昭和28年頃、姉まつよの孫に当たる佐藤博典に描彩の指導をしたことがある。
昭和45年5月21日没、76歳。

佐藤菊治 昭和15年 撮影:山田猷人

佐藤菊治 昭和43年

〔作品〕 菊治を作者として紹介した最初の文献は武井武雄著〈日本郷土玩具東之部〉である。下掲はその図版で、菊地孝太郎と並んで青根作者として紹介された。

右:菊地孝太郎 左:佐藤菊治 〈日本郷土玩具東之部〉

下掲3本は中屋惣舜旧蔵で、その前は村松茂(百兎庵)が所蔵していたもの、左端が〈日本郷土玩具東之部〉とほぼ同時期の作。右端は目、眉ともに水平に近く引かれ、表情は古風である。口は墨に紅が加えてある。正末昭初の作であろう。  


〔右より 25.2cm(大正末期)、16.5cm(昭和8年)、24.0cm(昭和10年)(中屋惣舜旧蔵)〕


〔右より 14.5cm(昭和4年頃)(鈴木康郎)、えじこ(昭和初期)(植木昭夫)、14.5cm(昭和8年)(石井政喜)〕

作風は昭和5年頃からあまり変わっていないので年代の判定は難しい。例えば口の描法も、墨だけのもの、墨の紅を加えたもの、紅だけのものとあり、これが必ずしも制作年代と関連していない。これは製作が連続的に行われたのではなく、米穀商の合間に注文に応じて断続的に行われたためかもしれない。ただこ目の描法は、時代を追ってその湾曲が目立つようになり、表情はさらにユーモラスなものになっていくように思われる。この傾向は同じ青根の菊地孝太郎と共通している。
なお、米殻商に転じた後、注文に応えられなかったこともあったようで、同地の菊地孝太郎が菊治名義で代作したものもある。


〔右より 23.5cm(昭和8年)(石井政喜)、25.0cm(昭和11年)(鈴木康郎)〕


〔右より 25.3cm(昭和10年)、24.0cm(昭和8、9年頃)(田村弘一)〕


〔22.1cm(昭和10年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲8寸は戦後の菊治の標準的な作品である。


〔 23.9cm(昭和38年頃)(高井佐寿)〕

昭和40年代に入って都立家政のこけし店たつみの主人森亮介が、在京蒐集家蔵の菊治古品を借り受け、菊治に復元を依頼するようになった。下掲3本は戦前作をもとに復元を行った作品である。


〔右より 23.9cm、24.2cm(昭和40年9月)、23.2cm(昭和41年6月)(橋本正明)〕

なお昭和43年5月肘折の幸之助の墓詣りに夫婦で出かけたとき、幸之助が挽いておいた木地下に幸之助風に描いた模作が数本ある。兄弟弟子に対する菊治の愛情のこもった作であった。その後、幸之助型を製作するようになり、たつみ等で売り出された。
左端は、〈美と系譜〉図版115で紹介された作者不詳の古青根の復元作。この原となったこけしは旧蔵者の言によれば大正12年ごろ青根で求めたものという。佐藤久吉の長男久助の弟子であった大沼新三郎はこれを佐藤重吉あるいは佐藤久助の作かと言っていたらしい。ただし菊治は重吉ではないと否定したという。


〔右より 20.4cm(昭和41年)、14.7cm(昭和43年)幸之助型(橋本正明)〕

〔伝統〕遠刈田系周治郎系列 周治郎家と治平家の作風を継承した重要な工人であった。六男忠が後継となった。
 

〔参考〕

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