佐藤慶治

佐藤慶治(さとうけいじ:1890~1960)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤幸太

弟子:新山慶美

〔人物〕 明治23年12月24日、宮城県刈田郡八宮村11(現在の弥治郎)の木地師佐藤幸太・すくの二男として生まれた。兄に今三郎、弟に味蔵・栄太郎・春二、妹にはるよがいる。栄太郎は生後間もなく亡くなった。木地は父幸太に学んだが兄今三郎からの影響も大きいという。慶治は明治45年頃新山栄五郎の長女かつ(明治30年5月31日生まれ)と結婚、栄五郎の婿養子となる。大正4、5年ころ青森県浅虫の島津勝治の工場で半月ほど働いた。島津勝治の工場は大正年間に盛んに営業、鳴子から大沼熊治郎、大沼甚五郎伊藤松三郎、花巻から佐藤末吉、青根から佐藤久蔵、弥治郎から慶治のほかに小倉茂松、佐藤味蔵らが来て働いた。
大正15年に長男慶美が誕生、これをもって慶美が新山家の家督相続権を受けることになり、慶治は佐藤姓に戻った。
昭和2年5月36歳の時、蔦作蔵の勧めにより山形県米沢市の白布高湯で木地屋を開業した。大正5年から白布高湯で木地を挽き、大正15年8月に亡くなった弟味蔵の縁ということだったらしい。昭和13、14年の休業期を除き、昭和34年10月頃までこけし制作を続けた。
休業の後、昭和15年春にこけし製作を再開するが、その動機は長男慶美が16歳になって木地を始めたので、こけしの型を教えるためであった。
昭和35年8月13日逝去、行年71歳。後継者に長男慶美(新山姓)、孫の純一、敏美がいる。

昭和33年に佐藤慶治を訪問した鹿間時夫は、その死を悼んで〈こけし手帖・35〉に次のように書いている。「慶治さんのこけしは線の細かい、どちらかというと繊細な味の方で、父ゆずりの真紅をいれ、今三郎さんよりもっと華やかな味を出していた。戦前でもこけし界では重要な存在であり、なくてならぬこけしの一つだった。戦後もずっと健在で、動力のきかない不便な山の上で、足踏みろくろを元気に踏んでいた。」

佐藤慶治 昭和34年9月 撮影:山田猷人
佐藤慶治 昭和34年9月 撮影:山田猷人

〔作品〕  佐藤慶治の初出の文献は〈こけし這子の話〉である。白布高湯のこけしとして掲載され、「弥治郎系なることは一目瞭然で、製作人佐藤慶治は10年程前弥治郎より移り住んだ人です。そのこけしの気分よく纏まっている点に於いて、弥治郎系での最たるもので、頬の紅点、又うれしいものです。」と非常に好意的に紹介されている。胴裾やや広がって緊張感のある表情の見事な作品であった。
ただし、白布高湯への転出を10年程前としているが実際には昭和2年であり、この記述は弟の味蔵との混同であろう。産地を白布高湯と明記しているから、作者が佐藤慶治であれば白布高湯に移った昭和2年5月以降、〈こけし這子の話〉が出版される昭和3年1月以前の作である。鼻は猫鼻で描かれている。

下掲の加藤文成コレクションの尺は昭和2年頃、白布高湯に移って間もない時期の作品であろう。

〔 30.0cm(昭和初期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション
〔 30.0cm(昭和2年)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

下の写真の左端、寺方徹旧蔵7寸7分も〈こけし這子の話〉掲載のものとあまり時代の違わぬ作と思われる。加藤文成旧蔵は胴中央に、下掲左端は胴中央のロクロ線の間に、右端は胸のロクロ線に橙の染料が用いられている。この橙の染料は、昭和初期に弟の佐藤春二も使用している。〈こけし古作図譜〉図版78の久松保夫旧蔵尺も寺方旧蔵と同時期の優品である。これには胴中央に橙が使われている。慶治は昭和10年代に入る頃まで橙を用いていたようである。
武井武雄は〈日本郷土玩具・東の部〉にこの時期の作品を掲げ、「大きなものになる程 顔が大きく扁平の感じがする。これは目鼻の造作を中心に小ぢんまりとまとめるからで、頬紅を小さく飛ばしたあたりおかめ鸚哥の様でとても可愛い。」と書いた。それ以後、この手の慶治の作品は「おかめいんこ」と呼ばれるようになった。

〔右より 29.0cm(昭和3、4年頃)(青柳英介) 中屋惣舜旧蔵、23.0cm(昭和2、3年頃)(田村弘一) 寺方徹旧蔵〕
〔右より 29.0cm(昭和3、4年頃)(青柳英介) 中屋惣舜旧蔵、23.0cm(昭和2、3年頃)(田村弘一) 寺方徹旧蔵〕

加藤文成旧蔵及び上掲の二本は面描撥鼻で描かれている。以降の作品はほとんどが猫鼻である。
このあと昭和13年に休業するまでの期間、慶治の年代による変化は比較的少ない方であった。

〔右より 16.0cm(昭和10年ころ)(鈴木康郎) 痴娯の家旧蔵、24.5cm(昭和9~10年頃)(植木昭夫)〕
〔右より 16.0cm(昭和10年ころ)(鈴木康郎) 痴娯の家旧蔵、24.5cm(昭和8~9年頃)(植木昭夫)〕

中屋惣舜は昭和10年以前と以後とを襟の描法の違いでわかるといっている。襟の向かって右の線が左に流れるのが昭和10年以前、下にまっすぐ下がるのは昭和10年以後としている。
下に掲げた9寸6分は、休業再開後の作品。左の襟はまっすぐに下がっている。また、〈こけし這子の話〉掲載の極初期と同じ猫鼻を描いている。中屋惣舜は「休業の後に往時の手法が思いがけなく復活することがある。」として、この休業後の慶治の猫鼻復活をその例の一つに加えているが、上掲の植木蔵も休業前の作であるのに猫鼻を描いており、この鼻の手法は年代の明確な決め手にはならない。
下の写真の作品(29.0cm)は、胴の模様が五弁の花を帯の上下に複数描くなど、描彩の手が多くかつ複雑になっている。

〔29.0cm(昭和16年頃)(青柳英介)〕
〔29.0cm(昭和16年頃)(青柳英介)〕

〔20.5cm(昭和33年5月)(森川桂一)〕 鹿間時夫旧蔵
〔20.5cm(昭和33年6月)(森川桂一)〕 鹿間時夫旧蔵

鹿間時夫は石井眞之助から譲られた黒くなった古品を幸太ではないかと思い、弥治郎を訪ねた。幸太の長男今三郎によって幸太であることは確認された。それを白布高湯に持参して佐藤慶治に復元を依頼した。この復元について鹿間時夫は、次のように書いている。「昭和33年年6月白布高湯へ行き佐藤慶治に会い、古品の模作を作ってもらった。彼にいわせると大正初年のものでなかろうかとのこと。幸太は寡作で1日数本しか作らなかったらしい。慶治はさすが実の子だけあって、父のこけしは印象深いものがあったらしく、黒くて判りかねる線を一つ一つ見わけ、気のつかなかった点も指摘した。右はその時1日がかりで作ってくれたものの一つである。ほぼ忠実な模作で頭はろくろ模様になっている。胴下部のろくろ模様は赤帯の間に紫と青の帯が走る。〈こけしの美〉図版99の慶治8寸5分(25.7cm)は深沢コレクションのもの、昭和15年5月作で、はからずも戦前彼が幸太型を作っていたことが判り、重要な資料である。この方は胴中央にろくろ溝が作ってある。〈こけし鑑賞〉」
下の写真のこけしが、深沢要が昭和15年に慶治に記憶をもとに作らせた幸太型である。黒い古品からの復元、そしてそれ以前の記憶からの復元、この二つ復元の形態・描彩の一致から、幸太作が確実に判明し、幸太型は弥治郎の後の工人たちへの重要な遺産となった。

〔25.7cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔25.7cm(昭和15年5月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

系統〕 弥治郎系幸太系列

〔参考〕

年代変化については下記2稿が参考になる

  • 中屋惣舜 〈こけし手帖・77〉 「こけしの変遷・佐藤慶治」 昭和42年8月
  • 鈴木康郎 〈こけし手帖・609〉 「談話会覚書(8)・佐藤慶治のこけし」 平成23年10月

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