佐藤伝喜

佐藤伝喜(さとうでんき:1909~1985)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤伝内

弟子:林重吉

〔人物〕 明治42年2月3日宮城県刈田郡福岡村大字八宮字弥治郎の木地業佐藤伝内・てうの三男として生まれる。戸籍表記は「傳喜」。大正12年福岡村尋常小学校を卒業後、木地の修業を始めたが、父伝内は家を離れて放浪をすること多く、もっぱら異母兄の伝吉や、次兄の伝の指導を受けた。また伝内の弟子であった渡辺求や、本田鶴松からも技術を学んだ。大物や玩具のほか、こけしも盛んに作った。
昭和7年結婚後、弥治郎を離れ、鎌先の従兄佐藤雅雄方で働き、その後 妻の実家七ヶ宿村滑津に移って、組合工場で盆類を専門に挽いた。この工場ではタービン利用のロクロを使ったという。
昭和8年春、米沢の御守町にあった西須木工所の職人となり、さらに昭和11年には白布高湯の佐藤慶治方の職人として働いた。白布高湯時代にはこけしも作った。
その後転職して、鉱山の技術者となり、白布高湯の南羽鉱業、新潟県日出谷の銀山、群馬県草津の吾妻鉱山などで働いた。
戦後昭和22年、群馬県高崎市の少林山下にあった亜炭炭鉱に移ったが昭和28年5月に倒産したので、昭和29年高崎市藤塚町348の自宅に木工所を設立、当時需要が大きかった新型の下木地を挽いた。
昭和32年頃から、少しづつ旧型こけしの製作を試みて、昭和33年6月から本格的にこけし製作を復活した。妻の姓「木下」を継いだが、こけし作者としては佐藤伝喜を名乗り続けた。
だるま市で有名な少林山達磨寺の北の麓に位置する自宅の作業場で、昭和55年6月までこけし作りを続けたが、昭和60年1月21日に没した、行年75歳。
なお晩年の昭和52年頃から、米沢の林重吉に描彩を教えたことがあった。

チョウナで木取りをする佐藤伝喜(昭和42年5月28日)
〈こけし這子の話〉の本人型復元のため、頭部の用材を
手斧で木取りをする佐藤伝喜(昭和42年5月28日)

〔作品〕 戦前の作品は数が非常に少ない。初出の文献は〈こけし這子の話〉に佐藤伝吉として紹介された7寸6分。これは〈図譜「こけし這子」の世界〉の図版31に伝喜として再掲されている。また、〈こけし這子の話〉に新山久右衛門型として紹介された5寸5分も伝喜旧作と考えられ、〈図譜「こけし這子」の世界〉の図版32に伝喜として掲載されている。これら作品はまだ伝喜17歳ころの作であるが既に完成の域に達している。
下に掲載した7寸は、面描が〈図譜「こけし這子」の世界〉の図版32と酷似しており、胴中央の帯の形状も図版31にに近いので、同時期の作と思われる。あるいは大、中、小の三本組みで、このこけしが中であったかもしれない。

〔21.1cm(大正末期)(藤田廉城)〕
〔21.1cm(大正末期)(藤田康城)〕

ここに掲げた二本は弥治郎時代のもの。昭和に入って伝喜20代前半のものである。

〔右より 24.0cm(昭和5年頃)(目黒一三)、12.5cm(昭和5年頃)(鈴木康郎)〕 弥治郎時代
〔右より 24.0cm(昭和5年頃)(目黒一三)、12.5cm(昭和5年頃)(鈴木康郎)〕 弥治郎時代

西田記念館の2本、胴裏の写真もあって参考になる。伝喜はこのように赤と緑を対称にして胴の表と裏を描いた。西田蔵品は戦後伝喜が戦前自作の復元をするときにモデルにもなった。

〔24.2cm、26.7cm(昭和5年)(西田記念館)〕 右2本は同じこけしの裏表
〔24.2cm、26.7cm(昭和5年頃)(西田記念館)〕 右2本は同じこけしの裏表

深沢コレクションにも、8寸の弥治郎時代の作例がある。やや保存は悪いが、〈古計志加々美〉の原色版に掲載されたものと同型同趣の作である。

 〔23.6cm(昭和6年頃)(深沢コレクション)〕 弥治郎時代
〔23.6cm(昭和6年頃)(深沢コレクション)〕 弥治郎時代

米沢、白布高湯時代のものも少し知られている。同じ〈古計志加々美〉の単色版に白布高湯時代の作例がある。大頭でどっしりとした作風だった。〈古計志加々美〉では伝喜を「更に発展すべき素質を持つ」として、その転職を惜しんでいる。

戦後昭和33年6月の復活初作は、戦前の作とはかなり変化しているものの、素直な作風で、弥治郎のおもちゃとしてのこけしの雰囲気がいたるところに満ち溢れていて、好感のもてる作品だった。特に8寸以下の小品が良い。復活初作として頒布されたので、作品数はかなりあり、時に中古市場に出るので伝喜としてこれを蒐集目標とする蒐集家もいる。

〔右より 15.7cm、29.5cm、24.5cm(昭和33年6月)(橋本正明)〕戦後本格的に復活した時の初作
〔右より 15.7cm、29.5cm、24.5cm(昭和33年6月)(橋本正明)〕
戦後本格的に復活した時の初作

昭和33年は伝喜にとって非常に重要な年で、復活したその年の7月には伝内型を、12月には本人の戦前型を復元した。伝内型はこの最初の昭和33、34年頃のものがいい。その後は徐々にバランスが崩れて、型としては破綻を感じさせるものもあった。

〔右より 25.2cm(昭和33年10月)、18.5cm(昭和34年1月)、23.5cm(昭和33年9月)(橋本正明)〕 伝内型三種
〔右より 25.2cm(昭和33年10月)、18.5cm(昭和34年1月)、23.5cm(昭和33年9月)(橋本正明)〕 伝内型三種

昭和42年、〈こけし這子の話〉の旧作を復元したことがあった。作品は十分に旧作の味を出していた。

〔右より 12.5cm、21.3cm(昭和42年7月)〈こけし這子の話〉の本人型復元、21.3cm(昭和42年7月)(橋本正明)〕
〔右より 12.5cm、21.3cm(昭和42年7月)〈こけし這子の話〉の本人型復元、
21.3cm(昭和42年7月)本人型 (橋本正明)〕

弥治郎の工人は、一定の型を固定して作るというより、基本的な弥治郎の要素を組み合わせて、その時々の材料の具合や寸法によって種々の形式のこけしを自由に作る傾向がある。
工場制で厳しい制約を受けていた遠刈田と大きく異なる点である。
そうした弥治郎の場合でも、若いころからきっちり修練を積んでいる工人の作には伝統としての安定感とまとまりがあり、面白いこけしが生み出される場合がある。佐藤伝喜もそうした工人であって、年代変化というより、その時代時代の面白さを楽しむべき工人かもしれない。

系統〕 弥治郎系栄治系列

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