佐藤豊治

佐藤豊治(さとうとよじ:1894~1945)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤周吾

弟子:佐藤里見/佐藤三蔵

〔人物〕 明治27年6月1日、宮城県刈田郡遠刈田新地の木地業佐藤周治郎の六男に生まれる。佐藤友晴の著〈蔵王東麓の木地業とこけし〉によれば明治41年より父周治郎について木地を学んだとあるが、周治郎は明治31年に亡くなっており、実際は兄周吾につき、木地挽を修業したと思われる。翌明治42年、北岡仙吉が仕送り制度を始めた時、寅治、直助、周吾、治平等と共に北岡の職人となって木地挽きを続けた。
その後各地を歩き、蔵王高湯に行ったのは、年代的にはっきりわかっていないが、明治末年らしい。吉田慶二の〈聞書・木地屋の生活〉によれば、石沢角四郎からの聞書きとして、豊治は「木地挽きの技術は当時東北一と言われ、15歳で遠刈田より高湯に来て代助の職人をしていた。」とある。15歳は明治41年にあたり木地を学び始めた時期であるから、実際に高湯に来たのはもう少し後かも知れない。
大正初めころには及位の佐藤文六方の職人をした。大正5年結婚、遠刈田温泉に移り、同6年ころより、寅治等と共に宮城県黒川郡吉田村嘉太神で木地挽きを教えた。大正8年に二男の照雄が誕生した。
帰郷後、大正7、8年に北岡工場で行なわれた木地講習会で豊治は広喜と共に木地を指導した。大正8年7月より10月まで、福島県南会津郡田島町の県と町による共設木工伝習所の木地教師をし、以後同様に福島県内各地で、講習会の木地講師となり、大正9年より13年まで毎年3ヶ月づつ講習を続けた。同13年のときには耶麻郡猪苗代町中ノ沢で開催され、岩本芳蔵、氏家亥一等が受講者になった。
その後は遠刈田に戻って寿町の通称六軒長屋に住み、北岡工場のロクロを借りて木地を挽いた。盆類、鉢類等やこけしも若干作った。昭和3年〈こけし這子の話〉にこけしの写真とともに紹介されている。大正14年に五男三蔵が、昭和3年に六男里見が誕生した。
昭和5年工場を設立、独立したが一年で失敗、同6年より静助が働いていた福島の管野菊好堂で職人をしたが、同8年ころには米沢の西須正芳木工所に移った。
昭和11年帰郷、以後遠刈田を離れず、北岡工場や佐藤文助方で職人を勤め、盆やこけしを作った。昭和16年より六男里見、同20年8月より五男三蔵に木地を指導した。昭和20年12月23日遠刈田温泉において没した、行年53歳。


佐藤豊治 昭和18年 撮影:田中純一郎

〔作品〕 下掲は〈こけし這子の話〉に掲載された2本で、共に大正中期のもの。襟に墨を使った古風な意匠である。すっきりと細身で、姿は美しい。

 
〔右より 21.5cm、13.3cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〈こけし這子の話〉掲載

北岡仙吉の職人たちのこけしは、ほとんどが仙吉名義で蒐集家の手に渡った。〈愛蔵こけし図譜〉の解説で武井武雄は「豊治の分は、昭和3年12月に北岡仙吉から取り寄せたもので、仙吉はいろいろな工人のものを行き当たりばったりに混交して発送していたようで、まるで籤引きのようなもの、誰のが当たるか一切運まかせという按配だったようですが、筆者の分は大二尺級から小豆級に至るまで、同一作者でそろえてありました。これも諸方検討した結果豊治と判明したもので、大9寸3分、小5寸2分これは古型と称しています。」と書いている。
下掲図版は〈愛蔵こけし図譜〉の佐藤豊治(右2本)と佐藤広喜の図版である。


〈愛蔵こけし図譜〉の豊治と広喜

下掲は〈愛蔵こけし図譜〉とほぼ同時期の作と思われる。
大正期のものと比べて頭部は大きく豊かになっているが、面描は細筆で童顔の愛嬌のある表情である。「おかめ顔」と呼ぶ人もいる。昭和6年に遠刈田を離れる以前の作品で残っているものは少ない。
  

〔22.8cm(昭和3年ころ)(庄子勝徳)〕

下掲の左2本は昭和11年遠刈田に帰郷した後の昭和10年代の作。現存する豊治はこの時期のものが多い。


〔右より 12.1cm(昭和初期)、24.2cm(昭和11年)、18.2cm(昭和14年)(久松保夫旧蔵)〕

下掲は昭和17年の作。この胴模様は豊治が好んで描いたが、蒐集家はこれを「崩れ桜」と呼んだり「ぼた菊」と呼んだりする。


〔25.5cm(昭和17年)(高橋五郎)〕

〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列。後継者に息子佐藤照雄、佐藤里見、佐藤三蔵がいる。照雄は木地を従兄弟の佐藤静助に習ったので静助型も作った。

 

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