志田五郎八

志田五郎八(しだごろはち:1884~1964)

系統:鳴子系

師匠:樋渡徳次郎/大沼熊治郎

弟子:志田菊麻呂/志田栄/志田清次郎/志田惣太郎/志田茂/佐藤英二

〔人物〕 明治17年2月24日、山形県西村山郡西川町大字大井沢116に生まる。
農業志田五郎八・貞よの長男。元来は善見といったが、二代目五郎八として昭和23年6月戸籍名も変更した。平将門の臣志田弾正の子孫だという。
明治30年川連の樋渡菊蔵より木地業が有望という話を聞いた大井沢の人たちは、明治31年4月川連の木地打師樋渡徳太郎(樋渡治一の父)含め木地師6人、塗師1人、塗下人4人を大井沢に招き、大井沢の志田善見(五郎八)、志田正二らが弟子となって木地を始めた。この時の出資者は、志田又蔵、志田庄五郎、志田正二、志田門長、志田直喜、佐竹文仲の6人である。しかし、原料が十分で無く、技術的にも完成されていなかったので、明治33年工場は閉鎖となった。志田善見(五郎八)、志田正二のみが後を引き受けて木地を続けた。父の五郎八は塗りを専門に、息子の善見(五郎八)が木地を担当した。
明治35年2月大井沢の志田荘松の二女美つのと結婚、カメヨ、ソメヱ、善次、キミホ、善長、タキ子、栄、文保の4男4女がある。
明治36年鳴子の大沼熊治郎が大井沢へきたときは、熊治郎からも木地を学んだ。熊治郎はこけしは作らず、横木を専門に挽いていた。翌37年熊治郎は鳴子へ帰った。その後鳴子よりきた某がこけしを挽いたので、この人にこけしを習ったという。明治38年日露戦争に輜重輸卒として従軍、39年に凱旋、この頃より大正初期にかけ事業は盛んとなった。41年志田茂太、志田菊麻呂、42年には志田惣太郎が弟子入りした。また42年には黒淵部落、43年には中上部落へ赴いて木地の指導を行った。その後大井沢の佐藤英二も弟子となった。大正3年稲の不作があり、木地職人を希望するものが多く出たため、東北救済会よりの補助金150円をもとに、二階建てでロクロ10台を備えた木地工場が完成した。大正7年には県が箱根から若い講師(一説には安藤齢太郎)を招き、この講師により多くの玩具が移入された。大正末には弟子や職人が20人ほどいて、常時10人ほど働き、 薄荷容れを山形市の吉野屋こと渡辺彦三郎薬局へおさめ、椀を山形市済生館脇の草刈七右衛門漆器店におさめた。薄荷容れはジャワ方面に輸出した。同地の蒟醤(キンマ)容器と思われる。大正6年正月山形県嘱託として箱根小田原の木地視察に出張、大正7年には薄荷容器の溝を作る道具を視察に大阪に行き帰途、渡辺正三郎、佐藤善蔵、小林倉吉等と共に君ケ畑を訪ね、掛図をもらってきた。また山形市香澄町の田中木工場へ二ヵ月間働きに行った。
昭和9年からは三男栄が木地を学び始めた。
戦前のこけし追求者たちの網にかからず、後年まで大井沢にこけし作者が存在したことは知られなかった。
昭和34年、疋田秀穂が〈おもちゃ・36〉に大井沢を紹介 し、同年小野洸が朝日連峰登山のとき、強力として雇った志田清次郎が五郎八の甥であった関係より小野洸の詳しい紹介でこけし界に知られることとなった〈こけし手帖・27、29〉。
昭和34年12月5日小野洸は再び現地を訪れ、本人に会い鳴子型のこけしを挽き描かせた。大きな工場の二階の竪挽きの足踏みロクロで、挽き屑は一階に落ちるようになっており、ロクロは10台あった。

小野洸の前で木地を挽く五郎八 昭和34年12月5日
小野洸の前で、竪挽きの足踏みロクロで木地を挽く五郎八
昭和34年12月5日

昭和37年に安孫子春悦氏が訪れたときは、木地を休んでおり、工場の中より昔の作を一本発見した〈こけし手帖49〉。昭和28年ころより木地は止めているといっている。昭和39年10月21日没、行年81歳。

〈木でこ・74、75〉に田中舜二の詳しい調査「大井沢こけしの源流追跡」が掲載されている。

自宅前に立つ志田五郎八 昭和36年9月 撮影:山本侘介
自宅前に立つ志田五郎八 昭和36年9月 撮影:山本侘介

志田五郎八 昭和37年5月 撮影:安孫子春悦
志田五郎八 昭和37年5月 撮影:安孫子春悦

〔作品〕 ほとんど残っていない。安孫子春悦発見の古作一本と小野洸が昭和34年12月5日に目の前で木地を挽かせ描かせた一本のみ知られている。
但し、昭和34年11月に小野洸が志田清次郎を介して五郎八にこけしを注文して送られた6寸と7本がかなりの数あったが、それは木地別人のものが多く、描彩も別人でニスを塗った鳴子一般型であったという。しかし、その六分の一ほどに五郎八の木地があったらしいが、形だけからどれが五郎八の木地か判定するのは困難であった。
安孫子春悦発見のものは尺3寸で頭大きく、木地の形は鳴子系である。ただし、描彩したのは菊麻呂で、オカッパに赤蛇の目を入れ、蔵王高湯の影響が見られる。一重瞼、猫鼻、瞳大きく、胴黄色く塗り、上下に赤と緑のロクロ線を入れ菊模様を描く。肩は高い。「20年ほど前にお祭の景品として五郎八が挽き、私が描彩したこけしが残っているはずだ」という菊麻呂の話をもとに、昭和37年に安孫子春悦が五郎八の作業場を探し回って見つけ出してきたものである。

安孫子春悦が発見した志田五郎八古作(こけしと福助 〈こけし手帖・49〉より
〔39.4cm(昭和10年代)安孫子春悦旧蔵〕
安孫子春悦が発見した志田五郎八木地、菊麻呂描彩古作(こけしと福助)
〈こけし手帖・49〉より

小野洸が目の前で作らせた五郎八の方は胴の形は鳴子風で、肩高く頭も長目、一筆目で前髪小さく、さらりと草書体で描いていて古鳴子の風格がある。上下のロクロ線が多い。鼻は一筆である。一見高野幸八を思わせる作風である。

〔 18.5cm(昭和36年7月)(小野洸旧蔵)〕
〔 18.5cm(昭和34年12月)(小野洸旧蔵)〕

系統〕 自挽き自描の小野洸旧蔵を見る限り、鳴子系である。弟子の志田菊麻呂は蔵王高湯の岡崎長次郎のもとで働き、大井沢に帰郷後もその影響下にこけしを作った。したがって安孫子春悦発見品は、菊麻呂が描彩しているので蔵王高湯系の要素も混じっている。ここでは木地描彩ともに五郎八であることがはっきりしている小野洸旧蔵をもとに五郎八は鳴子系工人であったとする。

五郎八型は、志田清次郎が作った。現在は菊麻呂の孫の志田菊宏が継承している。

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