菅原庄七

菅原庄七(すがわらしょうしち:1895~1972)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤三蔵

弟子:菅原敏

〔人物〕明治28年4月22日、宮城県栗原郡栗駒町鳥矢崎字中野田町前の農業菅原東治、みよしの二男に生まれた。高等小学校を卒業してしばらく家業を手伝っていたが、明治44年27歳のころ叔母のよしのの知人であった太田ふみに誘われて、秋保の太田家に弟子入りして木地を学ぶこととなった。しかし主人の太田庄吉はすでに没しており、庄吉の弟子であった佐藤三蔵について木地の修業を始めた。庄七に太田家を紹介した叔母のよしのは後に佐藤三蔵の妻女となる。この時期に庄七は6寸こけしを一時間平均2、30本、一日100本位は挽いたという。三蔵の家には青根の佐藤子之助はじめ職人が数人いた。庄七は描彩にも長けていたので、三蔵は描彩を殆ど庄七に任せるようになったという。
大正4年兵隊検査をうけたが兵役には就かず、太田家の職人を続けた。
大正5年秋、三蔵が太田家から独立したので庄七も三蔵に従って三蔵の工場に移った。
佐藤三蔵と秋保村立木地学校との関係は定かではないが大正9年2月の木地学校の閉校と前後して、三蔵は木地業を息子吉雄にゆずり、農業に専従した。そこで庄七も独立し、湯元の水戸屋旅館の奥のほうに工場をたて営業した。この水戸屋旅館主山尾今朝三郎の五男が山尾武治である。武治は三蔵の弟子でありまた秋保村立木地学校でも木地を学んだ、そしてこけしの描彩は主に兄弟子であった庄七のものを見て覚えた。
大正15年9月14日秋保村湯元の山尾武四郎の四女とめよと結婚、一子敏をもうけた。
戦後昭和30年代になって湯元字薬師の新しい家に転居した。昭和35年より長男敏に木地を指導した。昭和36年高血圧で病床の身となったが、爾来気分のよいときには少量ながら製作していた。昭和47年2月12日、秋保にて没した、行年78歳。昭和45年頃より妻とめよも息子敏の木地に描彩をはじめた。
昭和の始めの頃の木地業が不況の時期に、一時名取川下流の碁石川発電所で働いたが、それ以外は終生木地一筋の生涯であった。
〈こけし這子の話〉の紹介以来、戦前を通じ大量に作り最もよく活躍した工人の一人。昭和30年代に伝統こけしを支えた三大作者として鹿間時夫は、鳴子の高橋武蔵、蔵王高湯の斎藤源吉と並べてこの菅原庄七をあげている。

菅原庄七 昭和17年6月10日 撮影:加藤文成

菅原庄七 昭和17年6月10日 撮影:加藤文成

菅原庄七

〔作品〕庄七が習った佐藤三蔵はその師太田庄吉譲りのこけしを制作しており、庄七は三蔵のこけしをもとにその製作を始めたと思われる。一時、三蔵は殆どこけしを作らなかったという話が伝えられたが、太田庄吉の娘きくのは三蔵がこけしを作っていたことを覚えている。青根の佐藤久吉の二男で職人として来ていた佐藤子之助の影響もあったと思われるが、庄七自身は「子之助は、こけしの挽き方は上手かったが、描彩のほうは胴模様だけで顔は描かなかった」〈こけし手帖・50〉と語っており面描の伝承等主な様式は三蔵経由と思われる。
下掲写真は三原良吉旧蔵のもの。大正期で現存する極古い時期の作である。

〔36.4cm(大正12年ころ)(鳴子ホテル蔵)〕
〔36.4cm(大正12年ころ)(鳴子ホテル蔵)〕

下掲は〈こけし這子の話〉陸前 二に掲載された三本の秋保のうちの中央のもの。上掲三原旧蔵とほぼ同時期の作と思われる。天江富弥は「こけしの目鼻を書くに天才的な技能を有し、全くその線の繊細なる、独自の情緒を持つもの」と庄七を絶賛した。

〔26.7cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔26.7cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲は〈こけし這子の話〉陸前 二に掲載された三本の秋保のうちの左端のもの。


〔 12.7cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲は鹿間時夫旧蔵、鹿間時夫は「自分のコレクションで一本残すとしたらどのこけしか?」という問いに治助でも、佐藤栄治でもなく「この庄七」と答えた。皆が「え~っ!」と驚いたら、冗談めかして「醜男は美人を好むと言いますからねぇ」と言った。〈こけし鑑賞〉でもこの庄七を原色版で扱っている。ながく桜井玩具店に飾られていたもので、鹿間時夫は昭和14年に店主鈴木清からこれをわけてもらった。よほど鹿間時夫の琴線に強く響いたこけしだったのだろう。「庄七は大頭で頭一杯に描かれる赤いてがらが満艦飾の如く放射し、青ろくろと達筆な菊花が照り返って芳醇な情趣をだし、切れ長の瞳涼しく、ほんのりと淡い頬紅と長目の両ビンとあいまって艶麗比のない絶世の美女を創り上げた。」と賛美した。
また西田峯吉は鹿間時夫の死後間もなく、「鹿間コレクションの庄七こけし」という一文を〈こけし手帖・237〉に書いた。鹿間時夫のこの庄七への賛美文が〈こけしの美〉解説の繰り返しであることを指摘しながら、「鹿間氏にとって余程気に入った文章」、また「この庄七こけしには余程傾倒していたようで、読んでいて熱気のようなものを感じる」と綴っていた。

〔38.1cm(昭和初期)(鹿間時夫旧蔵)〕
〔38.1cm(昭和初期)(鹿間時夫旧蔵)〕

下掲は昭和10年の作例、頭の大きさに対して胴が太めになる。この傾向は戦後まで続く。


〔 34.0cm(昭和10年)(橋本正明)〕

なお、頭頂には緑で「乙」の字様の描彩が加えられているが、その縁起に関しては俗説がある。→ 乙字模様

下掲は戦後の作例、眼眉のカーブが幾分神経質そうな表情を作る。


〔24.0cm(昭和34年)(高井佐寿)〕

下掲写真は昭和40年代の初めに都立家政にあったこけし店たつみで売られていた小寸。戦前の復元として作り始められたが、自由自在の製作で庄七の本領が垣間見られる作品群、戦後作としては最も魅力ある作例の一つである。


〔小寸造り付け(昭和41~43年)(橋本正明)

系統〕遠刈田系秋保亜系

〔参考〕

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