鈴木幸之助

鈴木幸之助(すずきこうのすけ:1888~1967)

系統:肘折系

師匠:佐藤重吉

弟子:八鍬長蔵/大津広喜

〔人物〕明治21年1月21日(旧暦明治20年12月9日)、宮城県柴田郡川崎村(現川崎町)笹谷の農家に生まれた(戸籍上は3月21日生)。6歳のとき、母の実家、青根の旅館業佐藤重太郎の養子となった。
明治38年に青根の佐藤重太郎の弟菊治郎は娘むめよの婿に佐藤重吉を迎えたが、佐藤重吉は遠刈田新地の佐藤菊治(先代)の次男で父菊治より木地を学んだ人、幸之助は16歳から21歳の兵隊検査まで、この重吉について木地の技術を習得した。
幸之助は徴兵検査を大河原で受けた後、山形へ行って旅籠町の家具屋田崎弥蔵の職人となったが、三日でとび出して肘折へ移った。幸之助が青根を去って肘折へ行ったのは、青根では重太郎の弟が旅館をやり、養子の幸之助は木地をやらされたのが不満であったのと、大沼新兵衛に肘折のことを聞いていたためだという。ただし、どこで新兵衛に肘折のことを聞いたのかはっきりしない。当時肘折にいた佐藤文六の妻キシが青根の旅館で元女中をしていたので、それを頼って行ったという説もあるが、幸之助は肘折へ行ってからそれを知り、驚いたという話も伝わっている。
肘折では八鍬亀蔵方ヘ1年ほど厄介になった後、横山政五郎の腹違いの姉ハナエと結婚、政五郎の家の脇に住んだ。この間、文六のもとで尾形政治の仕事をやり、大正4年に最上木工場ができてからはこれに職人として参加した。
大正6年、長男幸雄が生まれ、入籍するとき、それまで佐藤重太郎の養子となっていたのを鈴木姓にもどした。このころ、金山橋の近くの尾形の貸家(のち尾形が肘折を去るとき買い取る)へ入った。
昭和3年〈こけし這子の話〉図版に作品が掲載され、〈こけし作者〉で工人名が紹介された。
昭和4年、最上木工場が閉鎖したので独立して自家で木地を挽き、新聞の取次店もはじめた。その前から妻ハナエが団子屋もやっている。
その後、戦争中はこけしは挽かなかったが、ずっと木地挽きは続けていた。
昭和35年に肺炎をわずらって以来、すっかり身体が弱くなったが、昭和40年まで断続的にこけしを挽いた。その後はロクロヘ上ることはあってもほとんどなにも挽かず、昭和42年10月16日、老衰により他界した。行年80歳。

鈴木幸之助 昭和40年ころ
鈴木幸之助 昭和40年ころ

工人には珍しく酒を呑まず、甘いものが好きだった。小柄で晩年は背が曲がり、痛々しかった。それでも写真を写したいと言うと座敷に正座してくれるような几帳面さがあった。息子の幸雄は山形で営林署に勤め、木地は挽かない。
幸之助から木地の指導を受けた工人には八鍬長蔵、奥山喜代治、大津広喜がいる。奥山喜代治、大津広喜は最上木工場時代の佐藤三治の弟子だが、三治に代わって幸之助が教えたこともあった。

鈴木幸之助 昭和41年
鈴木幸之助 昭和41年4月

〔作品〕 〈こけし這子の話〉の図版に掲載された鈴木幸之助は、やや胴は太いが木地の形(肩がない)や面描(割れ鼻)は、全く遠刈田様式のこけしでであった。


鈴木幸之助 〈こけし這子の話〉図版

現存する幸之助の大部分は、鳴子式肩を持ち、鉋溝の入った直胴に遠刈田式菊を配して、頭部には点状の髪飾りを多く描く様式であった。下掲は昭和5年頃の作、静謐な表情で気持ちの安定感を感じさせるこけしである。


〔 30.3cm(昭和5年頃)(久松保夫旧蔵)〕

この時期の後、昭和10年ころになると、細い筆致で筆勢が鋭く、表情に緊張感がある作風になる。中屋惣舜はこの時期をピークと言ったが、どの時期を評価するかは鑑賞者の眼による。
下掲三本は深沢要収集品であり、肘折を訪れた昭和13年6月に入手したものと思われる。表情は穏やかで、雪深い肘折の長い冬を静かに堪える姿がある。小寸物には肩が三角錐のようにこけた形のものも挽いた。


〔右より 25.1cm、29.4cm。24.2cm(昭和13年)(日本こけし館)〕深沢コレクション

戦後も大きく崩れることなく、戦前の雰囲気を持ち続けた。下掲4本は戦後の作品であるが、戦前の面影を残していて、肘折こけしの愛好家には人気が高かった。右端は昭和32年作、戦後もこの頃までは重ね菊の下の「い」状の模様が赤で描かれる。晩年はこれが緑になる。晩年の瞳はうるみがちで、時にユーモラスにもなった。全体に渋い情感で通好みのこけしであった。
左端は昭和40年暮れ近くの最晩年の作であり、筆の震えも見えるが、それはそれで趣があった。このころは娘さんが団子屋を営んでおり、訪れる愛好家に一本、二本と分けてくれた。


〔右より 20.7cm(昭和32年)、18.4cm(昭和35年)、20.8cm(昭和36年)、24.7cm(昭和40年)(橋本正明)〕

年代の鑑別は中屋惣舜が〈こけし手帖・74〉で議論している。
派手なこけしではないが、質朴な肘折の味を残す佳品で、戦後の風に染まない作風は人気があった。


〔30.3cm(昭和36年)(高井佐寿)

昭和42年に幸之助最後の作品6寸10本ほどが高円寺の民芸店「ねじめ」に送られてきた。その中の一本は胴を赤い顔料が流れて、面描は形を成していない痛ましい作品だったという。同送の手紙には「もうこけしは出来ません。これが最後です。・・」と書いてあり、俳人でもあったねじめ主人祢寝正也さんはその一本を手にして泪が止まらなかったと語っていた。

系統〕肘折系 青根の佐藤菊治、忠父子が鈴木幸之助の型を作った。

〔参考〕

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