高橋精助

高橋精助(たかはしせいすけ:1888~1950)

系統:弥治郎系

師匠:小倉嘉吉

弟子:高橋精志

〔人物〕 明治21年10月27日、宮城県刈田郡福岡村大字八宮字弥治郎の農業・木地業小倉嘉吉・志けの二男に生まれる。嘉三郎は長兄、弟に朝吉、茂松がいた。学校卒業後父嘉吉につき木地を修業し、一家で共に挽いていたが、明治42年8月七ケ宿村大字関の農業高橋幸吉の長男長太郎(屋号 山長 )の娘さたと結婚、婿養子となった。七ケ宿村に移ってからはほとんど木地を挽かず、もっぱら農業林業に従事した。勇(いさお)、精志、精三の三人の息子がある。大正元年ころより弟の茂松がきて、こけしその他の小物を盛んに挽き、弥治郎に運び嘉三郎に卸していた。
息子のうち二男精志のみが大正15年15歳から木地の修業を始めて、精助の技術を受け継いだ。昭和10年には二男精志は福島県平に移り、佐藤誠の作業場で働くようになった。
昭和14~16年にかけて、精助は収集家の要望により、数十本のこけしを挽いたが、間もなく農業と材木業に忙しくて中止した。
この昭和14~16年は、佐藤誠が七ヶ宿村に佐藤木工所関分工場を開業していた時期であり、二男精志がこの分工場の責任者として七ヶ宿に滞在していたことが精助のこけし製作の背景にあった可能性がある。この時期に、息子精志名義のこけしも精助のこけしも共に流布したが、その後の調査で木地は主に精志、描彩は全て精助が行っていたということが判明している。昭和16年に関分工場は閉鎖となり精志は福島県平に戻った。精志が去って以後、精助はこけしを作っていない。
その後、精助は農業、材木業に主に従事していたが、
昭和25年10月23日に没した、行年63歳。

 〔作品〕収集家の手に渡った作品は昭和14~16年と限られた時期であるので、現存する作品数は少ない。大寸のものは〈古計志加々美〉や〈こけしの美〉等に紹介されたように、直胴ロクロ模様のみで、形態描彩の変化はほとんどない。木地およびロクロ模様は二男精志が担当したと思われる。赤緑紫等の対比の鮮かなロクロ線は一般の弥治郎系こけしと比較して数多く引かれている。小寸は比較的太目の作り付け、所謂ぺっけの形態である。赤点の頬紅が特徴的である。
眉目切長で、甘美というよりは毅然とした表情であり、おっとりとした嘉三郎の作風とは距離が
ある。鹿間時夫は、弥治郎時代には精助の方が父の下で玩具を多く作り、精助のこけしは嘉三郎より「明治期の父嘉吉の伝承を比較的忠実に現わしているのではないか。」と書いていた。嘉吉系列の原型を探るのに重要なこけしである。


〔39.2cm(昭和14年2月)(鈴木康郎)〕 米浪庄弌旧蔵


〔右より 24.0cm(昭和16年頃)鹿間時夫旧蔵、12.2cm(昭和16年頃)久松保夫旧蔵(鈴木康郎)〕 

〔伝統〕弥治郎系嘉吉系列
二男精志が平において精助型の復元を行った。また精志にこけし製作を習った佐藤誠孝の一家も精助型を作ることがある。

〔参考〕

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