高橋兵治郎

高橋兵治郎(たかはしひょうじろう:1898~1974)

系統:木地山系

師匠:高橋徳左衛門

弟子:高橋雄司、阿部平四郎、樋渡治一、沓沢卯一、小野寺徳一、阿部永助、樋渡庄治

〔人物〕   明治31年2月11日、秋田県川連村の木地業高橋徳左衛門・ヱクの二男に生まれる。 文献によっては兵次郎と記載しているものもあるが、戸籍表記は兵治郎である。
大正初年より、父の高橋徳左衛門について木地を学んだ。父徳左衛門は本来塗下木地を挽いていたが、近所の子供たちに少数ではあるが、こけしも作っていたと兵治郎は語っていた。
兄弟弟子には、塗下木地になった藤原松三郎、同じく塗下で北海道へ渡った沓沢清太郎がいた。 兄の宇一郎も木地を挽いたがこけしは作らなかった。花立村の田口孫一は宇一郎の弟子である。宇一郎は間もなく商いをして廻ったりするようになり木地から離れた。
昭和7年蒐集家の橘文策が川連を訪問した。その訪問記は〈こけしざんまい〉の「こけし紀行 川連村にて」に載っている。多くの川連の工人が、この橘文策の訪問を契機に、本格的にこけしを復活させた。
橘文策は、兵治郎のこけしについて「今作っているこけしだと言って見せられた7寸のこけしの新鮮さに目を見張った。このたびの東北訪問中屈指の収穫として心がはずむのを覚えた。」と書いている。作品は〈木形子研究〉〈木形子談叢〉で紹介された。また、昭和8年に橘文策は木形子洞頒布として兵治郎を取り上げた。
戦後も木地業を続けて、弟子も多く育成した。主な弟子として、樋渡治一、樋渡庄治(塗下専門であるが、新型を作って黒沢尻に出したことがある)、沓沢卯一(こけしは作らなかったが、息子の智視は新型の木地を挽いていた)、小野寺徳一(泰一郎の弟子で、のち兵治郎についた)、阿部永助(徳一と同じころの弟子)、高橋雄司阿部平四郎がいる。
戦後はあまりこけしが売れなかったのでしばらく作らなかったが、昭和27年頃から少しづつ作るようになり、昭和30年頃から本格的に再開した。その後は川連久保の自宅でこけしを作り続けたが、昭和49年6月15日に没した。行年77歳。

高橋兵治郎 昭和45年

高橋兵治郎 昭和45年

〔作品〕   兵治郎の縦縞の着物模様は、彼の独創である。橘文策来訪以前には、こけしを試作したことはあったが売り物ではなく、他の工人の真似をして菊模様などを描いていたという。橘来訪に応じて、「何か自分のこけしを」と作りだしたのがこの着物模様であった。
橘文策は、このこけしを大変気に入って〈木形子談叢〉に取り上げ、「木形子の模様と言えば、きまって花模様か轆轤の線入りであるが、高橋はフリーハンドの線を駆使して、巧みに襟、帯を描き、縞目を現わしている。又一つの特色は、こけしの作者の大部分が単に可愛いい人形を作るという建前から、ややもすると性の表現を疎かにしてゐるに引き変え、これは何処までも女性の理想的な美しさを描かんと努力して、色気タップリなオバコをものしてゐる。」と書いた。橘文策の思い入れはさらに拡大していって「小さく圓らかな眼、柔らかな頬、豊かな首、首筋から肩への柔らかい流線、そこに描かれた襟元、それに素材の生白い肌色が融合して、表出されたものは香やかな性となっている。肉感を描写したこけしとして、おそらくこの右に出るものはないであろう。」と謳い上げた。
兵治郎が「女性の理想的な美しさを描かんと努力」をしたのかどうかは分からぬが、これ以後、兵治郎のこけしは「肉感を描写したこけし」と評されるようになり、それに深く共感した鹿間時夫は、兵治郎を「秋田おばこの官能的な表現者」として〈こけし鑑賞〉に取り上げた。

〈木形子談叢〉掲載写真 橘文策が見出した最初期の兵治郎こけし
〈木形子談叢〉掲載写真 橘文策が見出した初期の兵治郎こけし

〈木形子談叢〉写真の兵治郎こけし、特に大寸は形態も太めでどっしりしており、その雄渾な縦縞の筆使いは圧巻である。下の写真の二本も同じ時期の作。

〔右より 19.5cm(昭和7年11月2日)(谷川茂)、30.3cm(昭和7年)(石井政喜)橘文作旧蔵〕
〔右より 19.5cm(昭和7年11月2日)(谷川茂)、30.3cm(昭和7年)(石井政喜)橘文策旧蔵〕

兵治郎のこけしに夢中になった橘文策は、昭和8年に木形子洞頒布として兵治郎を取り上げた。木形子洞頒布は4本組であったらしい。

〔右より 24.3cm(鈴木康郎)、24.3cm、18.5cm(箕輪新一)、11.9cm(橋本正明)、いずれも木形子洞頒布、昭和8年ころ〕
〔右より 18.5cm(箕輪新一)、24.3cm(鈴木康郎)、24.3cm(箕輪新一)、11.9cm(橋本正明)、いずれも昭和8年の木形子洞頒布のころ〕

木形子洞頒布の作例は、下に写真で示した深沢コレクション6寸、〈こけしの美〉の米浪庄弌蔵8寸、〈こけし鑑賞〉久松保夫蔵8寸(図版の左)等に広く紹介されているが、これらは官能的というより、むしろかっちりとした緊張感があり、農村の生娘のかたさがある。

〔17.9cm(昭和8年頃)(深沢コレクション)〕
〔17.9cm(昭和8年頃)(深沢コレクション)〕

〔(戦前作)(沼倉孝彦蔵)〕
〔右(昭和15年頃か)、左(昭和8~9年頃)(沼倉孝彦蔵)〕

昭和10年頃からは帯の位置がやや高めになり、昭和12年以降には寸法の大きいこけしには鼻に子鼻を付けて描くようになる。

〔右より 18.0cm(昭和12年ころ)(鈴木康郎)、24.1cm(昭和12年)(鈴木康郎)、18.2cm(昭和10年代前半)(ひやね)〕
〔右より 18.0cm(昭和12年ころ)(鈴木康郎)、24.1cm(昭和12年)(鈴木康郎)、18.2cm(昭和10年代前半)(ひやね)〕

この昭和12年ころの作を、鹿間時夫は「小鼻が生まれ、色町のホステスのような色気が出てきた」〈こけし 美と系譜〉と書いた。鹿間はこの色気にたじたじとなって惹かれ、執着し続けた。

 〔右より 21.2cm(昭和15年ころ)(鈴木康郎)、36.4cm(昭和15年ころ)(谷川茂)〕
〔右より 21.2cm(昭和15年ころ)(鈴木康郎)、36.4cm(昭和15年ころ)(谷川茂)〕

〔右より 30.0cm(昭和17年2月)(谷川茂)、30.3cm(昭和17年ころ)(鈴木康郎)〕
〔右より 30.0cm(昭和17年2月)(谷川茂)、30.3cm(昭和17年ころ)(鈴木康郎)〕

このころになると鹿間好みの色気にも幾分酸味が増したと感られたのか、〈こけし 美と系譜〉では「ややグロである」と書いている。

戦後は、圧倒的な生命力も影を潜め、縦縞の着物姿もやや形式的になっていったが、兵治郎の独特の様式は多くの愛好家に受け入れられ愛された。
時に頼まれて戦前の自分のこけしの復元作を作ったこともあった。

〔21.2cm(昭和32年)、15.2cm(昭和34年5月30日)、24.3cm(昭和45年5月17日)、18cm(昭和49年)(沼倉孝彦蔵)〕
〔左より 21.2cm(昭和32年)、15.2cm(昭和34年5月30日)、24.3cm(昭和45年5月17日)、18cm(昭和49年)(沼倉孝彦蔵)〕

高橋兵治郎のこけしは、昭和7年頃に木地山系のこけしを基盤として自らの独創を加えて生み出されたものであり、秋田地方の農村風俗を表現したものだった。しかも、表現力豊かであり、訴える力も強かった、そして魅力的だった。
橘文策や鹿間時夫の感性に官能という面が強く響いたのは、やや不思議であり、違和感を感じる部分もあるが、童子あるいは童女を描くこけしの中にあって、ある程度成長した女性を描いたところが生々しく映ったのかもしれない。また、木綿に縦縞の意匠は、江戸期に鈴木晴信以降の浮世絵で数多く描かれ、一世を風靡した模様であるから、彼らはこの首筋襟元の着こなしとあわせて粋筋の女性を感じたのかもしれない。
こどもの玩具を念頭に作られたものではなく、都会の蒐集家の目を意識して創出されたこけしであるから、蒐集家の側にもある種の戸惑いがあったのである。

〔伝統〕  木地山系 兵治郎の伝統は長男雄司が継承している。

〔参考文献〕

  • こけし手帖・129:東京こけし友の会 静穏の工人・高橋兵治郎 (柴田長吉郎)