蔦作蔵

蔦作蔵(つたさくぞう:1892~1957)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤勘内/佐藤栄治

弟子:蔦衛/蔦文男

〔人物〕 明治25年11月18日、宮城県柴田郡大河原町に、菓子職人蔦伊作・ハツノの長男として生まる。蔦家は代々山梨県で寺職に従い、寺の周りの蔦にちなんでこの姓名をつけたといわれる。明治31年、7歳のとき両親が死亡、里子に出された。三年間の義務教育の後、農業の手伝いをしていた。
弥治郎の佐藤勘内の妻ふよの従兄弟である関係から、明治40年、16歳で勘内に弟子入りし木地修業を始めた。当時勘内は弥治郎の有力者で、神官にも出、多忙であったので、勘内の父栄治に主として教わった。玩具類、小物類等を作り、こけしも栄治よりかなり影響を受けている。弟弟子に渡辺求、鎌田文市がいる。
大正元年年期朋けし、一年のお礼奉公後、大正2年4月より、勘内の妻ふよの親戚に薦められて、米沢市小野川温泉で独立開業した。このときは勘内が心配して、事前に小野川に出向き、その地の利や、材料の調達可否等の下見もしてくれたという。煙草盆、茶筒、玩具、こけし等を作ったが、持前の研究心と器用さで、大正4、5年に入ったブリキ細工やゴム細工にも負けない売行きであった。以後も木地業を続けるかたわら、山の神や木地師の研究等も行った。
昭和3年に〈こけし這子の話〉で作者として紹介され、以後多くの蒐集家が訪れるようになった。
妻つぎえとの間に子供が生まれなかったため、つぎえの甥の文男を養子にした。文男は昭和12年に尋常高等小学校卒業後、木地の修行を行った。さらに蔦幸作の五男で甥にあたる衛を養子とした。昭和18年に衛が尋常小学校を卒業したので、衛にも木地の指導を行った。
養子の文男は昭和16年に応召、昭和19年2月に中国で戦死した。
50歳を過ぎた昭和19年に後妻しずえとの間に長男が誕生したので、戦死した養子の名前である文男を継がせた。
戦争中は木地挽きを一時休止したが、終戦後は再び自分で足踏ロクロを挽きこけしを作っていた。長男文男は昭和30年頃からロクロに上がるようになったので指導も行った。
昭和32年10月20日、胃潰瘍のため没した、行年66歳。
大変教養があり、生活力もあって、小野川では町の顔役としても活躍した。晩年には山形県こけし会の副会長も勤めた。話好きで昔のことも良く覚えていたという。
 

蔦 作蔵
蔦 作蔵


蔦作蔵 昭和32年8月 撮影:大浦泰英

〔作品〕大正期の作は弥治郎式の黒いベレー帽様式の頭部で周囲に垂れ髪を描く手法を用いていた。下掲写真のこけしのように額の半円状の飾りは描いていない。
眼点はフランス人形のように大きく描かれるが、表情は決して甘くは無く、明眸皓歯できりりと引き締まっていた。


〔 18.0cm (大正末期)(小山信雄旧蔵)〕

昭和初期は下掲右端のように額の上に半円状の飾り模様を描いた。この時期の作風は渡辺求に良く似ていて混同される場合がある。作蔵の額の半円状の飾りは、赤青青赤と四つ描くが、求は青赤青と三つである。

 

〔右より 24.5cm(昭和初期)、18.2cm、12.4cm(昭和10年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

昭和10年前後になると目が小さくなり、この描法は12年頃まで続いた。
昭和12年以降は、やや目は大きくなるが、初期の溌剌とした勢いは薄れた。やや目尻の下がる傾向も現われる。また額の半円状の飾りを描いた場合でも、その上からベレーの周縁全円に髪を描き下ろすような様式を用いた。


〔右より 24.3cm(昭和13年)、18.5cm(昭和12年ころ)、19.6cm(昭和14年頃)(鈴木康郎)〕

 
〔29.7cm(昭和16年頃)(寺方徹旧蔵)〕

昭和10年代には、多様な小寸物、髷付もんぺこけしなども作った。


〔右より 11.6cm、6.2cm、13.3cm、12.3cm、12.2cm(鈴木康郎)、8.2cm(河野武寛)、11.5cm(田宮順一)昭和14~17年の小寸〕

戦後もこけしの製作は行ったが、表情はかなり甘いものになっていた。蔦衛は作蔵の晩年の作風を継承した。

〔伝統〕弥治郎系栄治系列 養子の蔦衛、長男の蔦文男があとを継いだ。

 

〔参考〕

[`evernote` not found]