新山栄五郎

新山栄五郎(にいやまえいごろう:1871~1946)

系統:弥治郎系

師匠:新山栄七

弟子:新山栄助/渡辺幸九郎

〔人物〕 明治4年12月3日、宮城県刈田郡福岡村八宮弥治郎に生まる。農業・木地業新山栄七、みわの長男、栄助の兄。祖父栄吉は新山久治の祖父久蔵の兄にあたる。また父栄七の弟栄三郎は、新山久蔵の長女やのと結婚し、高梨由松の夫婦養子となった。新山家は鉄砲組足軽であった。母みわは同村の八巻左蔵の三女であるが、嫁いでからこけしの描彩も行い、目鼻描きの名人だったといわれる。
栄五郎は父栄七について木地修業、13、4歳のころより材料運びや手斧使いをした。
佐藤幸太が青根より帰り新技術を伝えたことから、弥治郎に技術革新の波が広がり、各工人が新技術を用いた新気風の作品を作るようになった。
明治21年18歳の春、栄五郎の家も二人挽きをやめ、足踏みに変えた。栄七、栄五郎、栄助の親子三人に加えて、国分惣作、国分祝、佐藤栄作三人の弟子もとって、木地製作に努めた。
栄五郎は、陸軍歩兵一等兵として日清・日露両戦役に参加した。
明治20年代は唸りごま、おしゃぶり、やみよ、きぼこ、筆立て、茶筒、煙草容れ、蝋燭立て等を挽いたが、きぼこは初め母みわが描彩し、二年目より自分で描くようになった。手描きの簡単な菖蒲、梅などの模様を描いていたが、明治28、9年ころより引き絵(巻き絵)の折衷式を用いるようになり、30年代には引き絵のみとなった。
明治40年代には本田鶴松が職人となり、また渡辺幸九郎が弟子となった。髷こけしは大正4、5年ころ仙台の博覧会のときに出品したのがはじめで、彼の創作になる。笠かぶりの朝鮮きぼこは父親よりの伝承といわれる。
先妻ゑいとの間に、かつ、よそ、都、とり、まつよ、はなかの六子があったが、都、よそ、はなかは幼死した。後妻まつえとの間に子なく、大正元年佐藤慶治をかつの婿養子としたが、慶治の息子慶美が生まれた翌大正15年、慶治は佐藤姓にもどった。慶美は新山姓を継いだ。五女まつよの婿遠藤松治(明治34年生)を婿養子とした。松治は新山姓となったが木地は継がなかった。しかし松治の長男新山学が後に栄五郎のこけしの後継者となる。

栄五郎は、仕事はマテ(丁寧)な方ではなく、また仕事が速いわけでもなく、弥治郎のガタ木地の代表者のごとくいわれた。晩年のこけしは仕上げが粗雑でバンカキもよくかかっていなかったが、老眼でよく見えない中で、勘と多年の経験で補っていたといわれる。量産を意企した根っからの職人気質であったが、些事に拘泥せず伝統とか、しきたりとかにはこだわらなかった。この気質は栄五郎特有のものというよりは、弥治郎の風土的なものかも知れない。
昭和21年12月31日没。行年76歳。

新山栄五郎

新山栄五郎 撮影:水谷泰永

〔作品〕初出の文献は昭和3年の〈こけし這子の話〉である。掲載された写真の一つが下掲の9寸5分で、鹿間時夫はこのこけしを「巨頭で胴のバランスよく、目鼻極端に紬く鋭い気格に富み、大ぶりの細いかせがしだれ柳のように垂れ下り、鬢は太短く、点状の小さな頬紅とまって、はりのある傑作であった。」と評した。


〔 28.8cm(大正末期)(高橋五郎)〕  天江コレクション

同様の作品は武井武雄が〈日本郷土玩具・東の部〉で取り上げたが、のちに〈愛蔵こけし図譜〉では、頭頂の赤い2本の作(下図)を載せて「何といっても好もしい魅力はこの日の丸丹頂の諸作にあります。また頬紅の二点何ともいえない可憐さです。」と評した。また胴の横縞を裾までは持っていかず、木地の部分を残したことは、子供への握りのための配慮のみならず、空白の効果としても成功していると肯定的に書いていた。武井武雄は、新山栄五郎と新山久治を弥治郎こけしの典型となるものと高く評価していたようである。


武井武雄〈愛蔵こけし図譜〉の栄五郎二種

下掲鈴木蔵の7寸4分は鹿間時夫旧蔵であるが、武井武雄蔵品とほぼ同時期の作品である。大振りの頭部と胴のバランスが良い。新山左京がこのこけしを復元したことがあり、また新山実も復元を行った。

〔22.5cm(昭和初期)(鈴木康郎)〕 鹿間時夫旧蔵
〔22.5cm(昭和初期)(鈴木康郎)〕 鹿間時夫旧蔵

下掲の加藤文成コレクションも昭和4~5年の作と思われる。


〔 23.3cm(昭和初期)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

下掲は右は昭和7年頃の作、左の作り付けは昭和13年頃のものであろう。巻き絵(引き絵)を用いず、弥治郎の古い様式の花模様を描いている。昭和13年10月〈木形子・4〉に同趣の作が紹介されている。おそらく母みわの二人挽き時代の古い描法を伝えていると思われる。新山さとや伝内の祖母とよや母ふよが描いたという描法にも同趣の手描き模様がある。


〔右より 21.5cm(昭和7年頃)、14.4cm(昭和13年頃)(橋本正明)〕

栄五郎は折に触れて小寸の作り付け、所謂ぺっけも盛んに作った。子供のおもちゃの時代の雰囲気をよく残した可憐な作が多かった。


一金会に集まった作り付けの栄五郎

下掲の深沢コレクションは昭和15年以降の作、形態に緊張感がなくなり、やや鈍重な印象となる。


〔 33.0cm (昭和15年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

昭和10年代後半になると、尺5寸くらいの大寸物も注文で作るようになったが、頭と胴の太さがほぼ同じくらいに作られることが多く、バランスの悪いものだった。胴に見合うサイズの頭の用材を確保するのが困難だったからかもしれない。

武井武雄も絶賛したように昭和10年以前のものに見るべき作品が多かった。ただ小寸の作り付けは比較的晩年まで、弥治郎こけしらしい、いかにも童具といった雰囲気の佳品を作り続けていた。

系統〕弥治郎系 新山系列

新山久志、新山福雄、新山左京が栄五郎型を復元した。左京は栄五郎孫の新山学が栄五郎型の復元を始めてからは作らなかった。学の長男新山実も栄五郎型を継承している。

〔参考〕

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