新山久一

新山久一(にいやまきゅういち:1917~1974)

系統:津軽系

師匠:佐々木金次郎

弟子:

〔人物〕 大正6年2月10日、青森市大野長嶋の新山沢次郎長男としてに生まれる。昭和6年高等小学校を卒業後、同7年大鰐町蔵館の佐々本金次郎に弟子入りし、同12年に年期明けした。弟子時代にこけしを挽いたことはあるが、描彩はしなかった。昭和12年より終戦まで応召出征、在満時代の凍傷により脚が弱い。同22年より嶋津木工所の職人となった。玩具、雑器等を挽き、昭和30年より試作こけしを作っていたが、長らく知られなかった。昭和39年川上克剛の訪問で紹介されたが、本格的に作るに至らず、昭和43年、箕輪新一、橋本正明が訪問し、〈こけし手帖・95〉に大鰐のこけし作者の一人として紹介して以後、多数流布するようになった。その後、足の凍傷が悪化して手術、・治療に努めたが、昭和49年1月21日に亡くなった。行年57歳。昭和40年代に嶋津一家が製作したこけしの木地のかなりの部分を久一が挽いていたこともあり、大鰐こけし復興の功労者であった。

新山久一 昭和43年8月

新山久一 昭和43年8月

〔作品〕 嶋津の家では5寸の定型的な寸法の木地をたくさん挽き貯めてあって、誰に依頼してもその中から木地を取り出して描彩するという風であった。嶋津誠一も入間誠吾も皆同様であった。掲載写真の左端がその木地に描いたこけしである。昭和43年嶋津誠一に正末昭初の多様なこけしの復元を依頼したことが、定型的なもの以外の形を作る契機となったが、こうした木地のかなりを久一が引き受けて挽いた。久一に描彩を依頼すると、その木地の一つを取り上げて描彩してくれる。非常におっとりとした工房だった。〈こけし手帖・95〉以後、津軽ファンの何人かの蒐集家が大鰐を訪れるようになり、いくつかの型の復元も行われた。宮田昭男(昭和44年7月)、宮藤就二(昭和44年8月)の依頼によるものなどがある。また東京阿佐ヶ谷のこけし店「ねじめ」でも昭和44年4月作が売られた。久一の場合は、復元といっても正確に写すということはあまりしなかったので、自然に作った5、6寸に魅力ある表情のものが見られる。

〔右より 18.8cm(昭和44年8月)、24.8(昭和44年7月)、18.2cm(昭和44年4月)、15.5cm(昭和43年8月)(橋本正明)〕

〔右より 18.8cm(昭和44年8月)、24.8(昭和44年7月)、18.2cm(昭和44年4月)、
15.5cm(昭和43年8月)(橋本正明)〕

〔伝統〕 津軽系温湯亜系

 

 

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