新山左内

新山左内(にいやまさない:1902~1980)

系統:弥治郎系

師匠:新山久治

弟子:新山左京/浜津平三郎

〔人物〕 明治35年6月25日、新山久治郎・さとの五男として弥治郎に生まる。大正3年尋常小学校卒業し、13歳から父久治郎や兄久治について木地を修業。玩具やこけしを作った。この頃は久治は主に家具類を、左内は玩具中心に挽いた。大正7年父久治郎が家を新築するため佐藤伝内から100円の借金をしたので、左内はその返済の助けと、修業の一環として伝内の家に住み込みで約1年働いた。この時伝内の家では、佐藤伝、渡辺求、佐藤五月も働いていた。大正9年弥治郎を出て、東京本所の梅森町にいた兄福太郎を頼って上京、福太郎の家から押上の石川熊吉木工所に通って職人として働いた。ここではバケツの握り、ホロガヤの玉、くけ台などを挽いた。大正11年東京本所三ツ目通の丸岡木工所、さらに三ノ輪の清水甚作工場で働いた。東京時代には雑器や玩具専門でこけしは作っていない。大正12年8月入隊のため弥治郎に帰郷、10月に福島聯隊輜重兵として入隊、約2ヶ月で除隊した。大正13年に佐藤勘内の勧めで、郡山の鈴木小細工店に行き、徳利の袴などを挽いた。ここには職人として、渡辺幸九郎、佐藤雅雄、高野辰治郎などもいた。大正14年には岩本善吉の世話で猪苗代の小椋秀太郎家具店で4ヵ月働いたが、母さとの体調が悪くなったため一時弥治郎に戻った。その後、勘内の世話で福島県田村郡夏井の岩城幸治の製材所へ行って4ヵ月働いた。ここでは高野辰治郎も働いていた。大正15年福島県双葉郡白野村折木鉱泉にいた佐藤誠に頼まれ、1ヵ年職人をした。この間足踏みロクロで雑器を挽いたが、こけしはあまり作らなかった。約50円の貯金もできたので、福島県石城郡大野村玉山鉱泉で独立開業した。また昭和2年には玉山鉱泉生まれの松代と結婚した。昭和9年、長男左京が誕生する。玉山では約10年働いた。昭和11年日立市助川へ移り、日立製作所の下請の仕事に従事、また玩具類も盛んに挽いて四国屋(玩具店)に卸した。昭和19年東白川村大字内川(矢祭)に疎開した。矢祭から日立製作所に通ってボビンやミシンの足などを挽いた。玉山時代、助川時代には盛んにこけしを製作、矢祭時代にも水戸や袋田温泉の菊地寅治の店にこけしを出した。
昭和24年4月弥治郎へ帰郷、小倉嘉三郎家の一間を借りて住み、翌年5月に新居に移った。
この頃より、長男の左京が木地を学んでこけしを作る様になった。
昭和26年までは白石の八代鉄園のもとへ通い新型の下挽職人をしていた。このときの弟子に浜津平三郎がおり、やがて伝続こけしの製作を行うようになった。昭和26年より弥治郎の自宅で独立し、昭和32年よりこけしと食料品の店を開業。昭和39年5月に白石市主催の木地玩具製作講習会の講師をしたこともある。その後、店の脇にある作業場でこけしの製作を続けたが、昭和55年5月1日に没した、行年79歳。

新山左内 昭和40年

新山左内 昭和40年

〔作品〕 戦前の弥治郎時代、および遍歴して玉山に落ち着く前の時代のものは残っていない。現在残るのは玉山時代以後で、〈こけし這子の話〉により紹介された。戦前の作は比較的変化が少ない。明るく柔和な面相で、兄久治ほど剛直でない。胴は濃黄色で、丹念な仕上げは頗る美麗であるが、セルロイド製人形のようだと評されたこともある。
昭和10年ころまでは撥鼻のものが多い。また戦前のものは嵌込み式による。助川に移ってからも同趣の作風であるが、丸鼻が多い。戦後は表情が神経質となっており、構造も差込みである。胴のすそに松葉や草の葉を描く。


玉山時代の作例 ひやね一金会(平成25年10月)にて


〔右より 23.8cm、9.2cm(昭和14年頃)(日本こけし館)〕 助川時代 深沢コレクション

戦後も安定して作品を作り続けた。頭部のベレーの色には黒を使うようになった。


〔右より 24.0cm(昭和48年)、18.0cm(昭和63年)(高井佐寿)〕

〔伝統〕 弥治郎系新山系列  新山久治郎-新山左内-新山左京-新山民夫と継承

〔参考〕