平賀謙蔵

平賀謙蔵(ひらがけんぞう:1887~1949)

系統:作並系

師匠:小林倉吉

弟子:平賀貞蔵/平賀多蔵/平賀謙次郎

〔人物〕 明治20年9月10日、平賀太五郎・ウタの長男に生まれる。父太五郎は岩手県稗貫郡湯口村根子の出身、文献によって太五郎を多五郎とするものがあるが、戸籍上は太五郎であり万延元年9月12日生まれ、その父は平賀徳助、母はタケである。太五郎は宮城県の広瀬川流域の伐採事業に加わるため、作並に移住、作並で流木を扱う労務者の定宿であった佐蔵慶治方に草鞋を脱いだ。その後、岩松旅館の岩松亥之助に認められて作並温泉の繁忙期には岩松旅館で雑役夫として働くようになった。
太五郎はやがて、漆山村の伊豆田金次郎の妹ウタと結婚し、妻の実家のある漆山村で所帯を持った。ここでは主に木綿類の行商をやった。平賀謙蔵はこの漆山村で生まれた。
行商をしていた太五郎に岩松亥之助から迎えが来て、一家は作並に呼び戻された。太五郎には家を建てる土地も提供してくれた。謙蔵の母ウタは明治33年2月に亡くなった。
岩松亥之助は、その姉よふの夫であった先代の岩松喜惣治が明治11年に31歳で早世したため姉の養子となって旅館経営を引き継ぎ、温泉の繁栄に心を砕いていた。湯治客の土産物をそろえることにも熱心で、木地玩具やこけしの販売には芋澤村の今野新四郎のこけしを取り寄せて売ったりするなど苦心していた。そして、地元作並での土産物生産を念願としていたので、太五郎の長男謙蔵に木地挽きになることを強く勧め、謙蔵を山形の小林倉吉のもとに弟子として送った。小林倉吉の父倉治は、江戸末期に作並で南條徳右衛門について木地を学び、兄弟子岩松直助の長女つる(万延元年9月10日生まれ)を養女にしていた。
謙蔵は明治34年に倉吉の弟子となり、木地を修業、明治40年11月30日に卒業した。刻苦精励して技術を学んだようで、褒状とともにロクロ、道具類一式を倉吉から受領している。同年12月30日仙台第二師団歩兵第4連隊に入営、明治42年12月に除隊した。
こうした縁もあって、明治41年岩松直助の娘つるは謙蔵の父太五郎の後妻となっている。謙蔵は除隊後、翌43年1月から44年4月まで倉吉のもとで15カ月間御礼奉公をした。倉吉はまた勤勉の報酬として金30円を謙蔵に与えている。極めて厳格な師弟関係であり、技術伝承のプロセスであった。(師弟関係については、倉吉がしたためた「小林家記録書」があり、詳細な記録が残されている。)
その年の9月に倉吉の妹きよと結婚、明治45年きよとともに作並に帰り、木地を開業した。玩具・盆・椀・雑器等を作り、温泉土産として売った。また弟の平賀貞蔵もこのころ謙蔵について木地の修業を始めている。大正13年には長男多蔵が木地の修業を開始し、旅館主岩松亥之助が望んだように、作並土産は地元で盛んに生産されるようになった。大正15年5月に父太五郎が亡くなり、謙蔵が家督を継いだ。
昭和5年には次男謙次郎が木地を挽くようになった。昭和6年仙山線開通により温泉客の数は飛躍的に増加して、木地物も盛んに買われていくようになった。仙山線開通の時には記念の小寸のこけしを大量に作ったと謙次郎は話していた。昭和7年には土産物店も開店した。
昭和12年頃に中風を患い、以後木地挽きは専ら謙次郎で、謙蔵は描彩を専門に行うようになった。昭和14年平賀謙次郎が出征した後は、平賀貞蔵や平賀多蔵の木地に描いた。昭和17年頃からはほとんど描彩も行わなくなり、戦後は全くこけしを作らなかった。昭和24年12月12日没、行年63歳。

平賀謙蔵

平賀謙蔵

〔作品〕 作並で当初作り始めたときには山形風の胴模様を描いていたが、それを見た岩松亥之助は「作並の胴模様はそういう描き方ではない」といって今の花模様の描き方に変えさせたという話が残っている。岩松直助当時の胴模様はわからないが、岩松亥之助が本来の作並こけしとして印象に残していた模様は槻田与左衛門の桜崩し模様であり、謙蔵には桜崩しを描かせようとしたのであろう。その桜崩しはまた微妙に変形して、今残る謙蔵作に見られる胴模様になった。その胴模様を今日の作並の作者も継承している。蒐集家は蟹が横歩きをしているようだと、蟹花などと呼んだりもする。
初出の文献は天江富弥の〈こけし這子の話〉で三本の平賀謙蔵を写真紹介している。うち二本大小は作並本来の型、もう一本のオカッパ(黒頭)は、山形の小林一家が蔵王高湯のオカッパをまねたものを謙蔵がさらに模したものとして紹介している。天江富弥はオカッパを高く評価しなかったため、コレクションのもう一本の大寸のオカッパは〈こけし這子の話〉に掲載しなかったが、鹿間時夫は〈こけし辞典〉で「まず大名物級の逸品」と高く評価した。下に掲げた写真の右、大寸の方のこけしである。

〔右より 31.8cm、26.8cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江富弥旧蔵
〔右より 31.8cm、26.8cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江富弥旧蔵
左は〈こけし這子の話〉掲載のこけし

下に掲げる小寸は、鈴木鼓堂旧蔵品で胴底に大正14年の記入がある。〈こけし這子の話〉の小とほぼ同様の形態ながら、こちらは二側目、天江コレクションのものは一筆目である。

〔11.2cm(大正14年)(鈴木鼓堂旧蔵)〕
〔11.2cm(大正14年)(鈴木鼓堂旧蔵)〕

仙山線の開通が近い昭和4年頃は謙蔵の円熟期であり、作品の出来も安定している。らっここれくしょんの大寸のものは眼点が中央によって緊迫感があり、独特の雰囲気を持っている。
〔右より 18.2cm、32.7cm(昭和4年)(らっここれくしょん)〕 
〔右より 18.2cm、32.7cm(昭和4年)(らっここれくしょん)〕

〔伝統〕 作並系 謙蔵 ― 謙次郎 ― 謙一 ― 輝幸と伝統は継承されている。。

〔参考〕 「日本文化私観」、「日本美の再発見」等の著作があるドイツの建築家ブルーノ・タウトはおそらく昭和8、9年頃作並を訪れ、謙蔵が木地を挽いてこけしを作るのを見ている。タウトは地名を白石と誤って記憶していたが、書かれた本の口絵の写真は明らかに平賀謙蔵のこけしである。「非常に敏活に、精巧な子供の人形を私の見ている前で、蝋を引き色を塗って素晴らしい技術で製作して見せてくれた。」と書いていた。

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