舟山嘉作

舟山嘉作(ふなやまかさく:1895~1972)

系統:山形系

師匠:

弟子:

〔人物〕明治28年2月16日、米沢の舟山嘉蔵・たかの三男として生まれた。
舟山家は士分の家柄であったが、維新以後嘉蔵は大工となり、明治時代後期には棟梁として職人を束ねる立場となった。三男の嘉作は米沢市花沢町で木地業を開業したが、時期や師匠等の木地経歴は判然としない。戦前の最盛期には従業員を多数雇入れ轆轤、木工旋盤、ボール盤等を複数設置して木管、ボビン、盆、茶器、卓球のラケット、こけし、米沢人形等を挽き、相応の宅地、農地を所有していた。昭和10年頃に軍の要請で新潟の海洋で特殊な作業をしていたが、その頃に照子と知り合った。妻女照子は昭和13年頃から米沢で嘉作の挽いたこけしや米沢人形の木地に描彩を行った。〈辞典〉では、舟山嘉作の名を項目にあげ、こけし描彩者として紹介しているが、嘉作は木地のみで描彩は照子がおこなった。
〈鴻・第2号〉では、昭和15年に嘉作名義で売られていたこけしは 「皮付の丸木にポスターカラーで描彩した木ぼこ類似品である」とある。〈辞典〉には、「木地は当時、米沢市清水町にいた橋本力蔵の挽いたものである。なお嘉作の妻てるも新型こけしの描彩者である。」とあるが、舟山家では、「木地は嘉作で、力蔵の木地に描いたという記憶はない。」としている。嘉作自体も木地を挽き、また職人も抱えて木地業を行っていた舟山工房で他人の力蔵に木地を依頼するのは不自然のように思われる。
姓を「船山」と表記する文献も多かったが「舟山」が正しい。

昭和47年8月28日、米沢市東一丁目にて没した。行年78歳。

左:舟山嘉作、右:照子

 
〔作品〕下掲が嘉作木地、照子描彩の典型的な様式の描彩であるが、特に胴模様などには米沢の山形系の作者(小林吉太郎の弟子等)の影響があったように感じられる。米沢で作られた一般型であろう。


〔30.9cm(昭和15年頃)(高井佐寿)〕


〔右より、14.8㎝(昭和17年6月)、30.0㎝(昭和15年頃)、12.6㎝(照子名義)(昭和15年頃)(矢田正生)〕

 

〔伝統〕山形系一般型

〔参考〕

  • 中根巌:舟山嘉作、照子のこと〈木でこ・250号〉名古屋こけし会(令和5年9月10日)

 

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