本田鶴松

本田鶴松(ほんだつるまつ:1885~1952)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤伝内/高梨栄五郎

弟子:本田亀寿/本田久雄

〔人物〕 明治18年7月8日、福島県伊達郡板橋の荒物商本田芳蔵・エキの長男に生まれる。〈山村に生きる人々〉には父長吉とあるが、戸籍記載上の父は芳蔵である。父の故郷は福島県田村郡高野村人宇土棚字石田、鎌先の一条旅館の番頭を20年間つとめ、妻帯後板橋で荒物商をしたが、鶴松が6歳の時に白石に出て、笠蓑綱等を作っていた。明治25年8歳で弥治郎の新山久治郎の家の子守りとなった。久治郎家での扱いは厳しかったので、隣家の高梨栄五郎の母やのに世話されて、栄五郎の弟子となった。やのは新山久蔵の長女で、新山久治郎の姉に当たる。
鶴松は、高梨栄五郎の下で木地玩具、茶筒、菓子盆、こけし等を挽き大いに売った。明治37年20歳より22歳までは佐藤勘内方で働き、ついで3年間佐藤伝内の家でも働いた。明治42年25歳のころ、佐藤栄治の職人となり、白石短ヶ町の佐藤清之進の妹とめと結婚したが、大正2年とめが出奔したので、まもなく伝内の世話により宮城県柴田郡槻木町の渡辺文七二女まさと結婚した。
大正4年の春、小原から西に1.5 km 程の鍋割に夫婦して移住した。こけしや木地玩具を盛んに挽き、それを妻まさが小原湯元に持って行って商った。大正8年に長男亀寿が生まれた。

桂屋の鶴松の店

大正12年(〈鴻〉による)、あるいは13年(〈山村に生きる人びと〉による)に小原の旅館桂屋主人四竃太郎兵衛の依頼により、桂屋の一階に夫婦で住み、桂屋の二段歩(約2,000㎡)の田の小作や湯番を引き受ける傍ら、木地も挽いて、菓子雑貨とともに製品の木地物などを商った。
昭和3年〈こけし這子の話〉によりこけし作者として紹介されて以来、こけし界には極めてなじみの深い存在となった。
昭和11年4月より二男亀寿に木地を教えるべく、桂屋旅館から二町(220m)ほど離れた崖の中段に木地小屋を立て、亀寿とともに木地を挽きながら指導を始めた。しかし、長男亀寿は木地挽きの将来に希望を持てず、昭和12年10月に小原を出て横須賀の海軍工廠造兵部に入ったので、その後鶴松の製作意欲は衰え、製作数は減少した。
昭和13年には四男久雄が木地を挽くようになったが、翌昭和14年5月鶴松は軽度の中風にかかり、左手が不自由になってからはこけしを作らなかったようである。以後の写真では左手を出さないようにしている。鶴松が中風になったので、昭和14年7月に二男亀寿は横須賀から帰郷した。
鶴松は、鷹揚な性格で闊達、話好きで快活であった。
ふくえ、安寿、亀寿、亀松、久雄、義男、はな子、昭子、令子、幸三の六男四女をもうけたが、安寿は2歳で、亀松、義男は1歳で死亡した。
昭和27年9月11日没、68歳。経歴や人柄については〈山村に生きる人々〉に詳しい。

 
本田鶴松 撮影:水谷泰永

〔作品〕本田鶴松は〈こけし這子の話〉で既に作者として紹介され、蒐集界に知られた工人であった。下掲3本は同時期の作であるが、そのうち右端が〈こけし這子の話〉で紹介された鶴松作の一本である。
鶴松のこけしからは弥治郎の佐藤勘内の様式が感じられるが、鶴松自身は「弥治郎時代に高梨栄五郎のもとで自分なりに作り始めたもので、寸法の大きいものに見られる胴のくびれは高梨栄五郎の母やのに勧められて支那服に似せて作るようになった。」と言っていた。またやのは面描きの名人であったと言われているから、鶴松の面描にもやのの影響があるかもしれない。


〔右より 14.2cm、21.2cm、16.7cm(大正13年)(高橋五郎)〕 天江コレクション 

下掲は、有坂與太郎著〈郷土玩具展望・中巻〉の口絵に掲載されたもの、おそらく〈こけし這子の話〉掲載のものと同じ時期の作であろう。


〔 13,0cm(大正末期)(鈴木康郎)〕 有坂與太郎旧蔵

下掲図版は武井武雄の〈愛蔵こけし図譜〉「小原 本田鶴松」、解説には「昭和3年4月入手。本田の眉目に一種独特の個性あり、群雄割拠の弥治郎系中確かに一異彩たるを失わぬものです。」と書かれている。


武井武雄〈愛蔵こけし図譜〉 小原 本田鶴松

下掲二本は、〈愛蔵こけし図譜〉とほぼ同時期、昭和3年の作であろう。眉目は太く、かつ著しく湾曲していて異色の描法である。鶴松と言えばこの眉目をまず思い起こすが、この時期の作が特に著しく、他の時期には比較的素直に描かれた眉目も多い。
しかし、後の鶴松の後継者たちの中には、この湾曲をさらに誇張して描くものも出た。


〔右より 28.5cm(昭和3年)(国府田恵一)、13.5cm(昭和3年)(鈴木康郎)〕

下掲は昭和一桁台中期の作例であるが、この時期まで胴の両脇の3筆の花弁は水平あるいは幾分外上がりに描かれる。


〔17.2cm(昭和5年)(河野武寛)〕

下掲2本はともに昭和10年代に入ってからの作。頬紅が大きく描かれるようになり、また胴の両脇の花弁も外下がりに描かれるようになる。またほぼ同寸の上掲こけしと比較して胴脇の花弁数も3筆から5筆へと増えている。


〔右より 16.5cm(昭和12年頃)(鈴木康郎)、16.6cm(昭和12年頃)(田村弘一)〕

〔伝統〕弥治郎系栄治系列
佐藤栄治、伝内、勘内のもとで職人をしていたので栄治系列に分類しているが、高梨栄五郎のもとで最初にこけしを作り始めているので、高梨栄五郎やその母やのの影響が根底にあるかもしれない。ただし高梨家のこけしが現存していないので個々の特徴について議論することは難しい。
一方で、高梨家を含めた明治20年代系統確立期の弥治郎の多様な作風伝えるものとして鶴松のこけしは貴重である。

鶴松の作風を継ぐものには、息子の亀寿、久雄のほか、亀寿の弟子たちとその継承者など多くがいる。
鶴松の作風を継ぐ作者:本田亀寿、本田久雄、本田裕輔、四篭健康、大浦久一、松沢正麿、大泉清見、星博秋、星定良

〔参考〕

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