間宮明太郎

間宮明太郎(まみやめいたろう:1895~1977)

系統:津軽系

師匠:間宮忠太郎

弟子:間宮正男

〔人物〕 明治28年5月28日、青森県南津軽郡大鰐の木地師間宮忠太郎の次男として生まれた。間宮家は大鰐の古くから続く居木地師(飛びをして移動する渡木地師に対して、支配者の庇護を受けて定住する木地師をいう)で、祖父孫次郎、父忠太郎、兄竹次郎と木地に従事した。
祖父孫次郎の名は沢田九郎兵衛、島津彦蔵等とともに明治23年の第3回内国勧業博覧会の出品目録に載っている。

第3回内国勧業博覧会(温湯、大鰐からの出品)

明太郎は明治42年15歳より父忠太郎について木地を学んだ。独楽、ズグリ、じょうば槌(砧)などの木地玩具や、柄杓、杓文字などを盛んに作った。 大正に入ると兄竹次郎のいる本家より分家し、加賀助旅館の近くで独立開業した。藩政時代には木地師の家は決まっていて分家を許さぬ厳格なギルド制度が維持されていたが、大正にもなるとこうした縛りは幾分緩やかになっていたのである。大正13年には兄竹次郎が木地挽きをやめたので、明太郎は本家に戻ってその家業を継ぐことになった。木地業の傍ら菓子屋も営んでいたようである。
昭和初年に木村弦三の勧めにより、こけしの製作を始めた。
昭和10年頃から長男の正男も木地を始めるようになり、玩具類も多く作った。
戦争が始まると軍需品の生産が主体となり、盆などの雑器類は日光から、玩具類は箱根から取り寄せるようになった。
戦後は、再びこけしも盛んに作り、昭和40年頃までロクロに向かっていた。その後中風になり、製作を休止した。
昭和52年7月11日没、行年83歳。

間宮明太郎 撮影:水谷泰永

間宮明太郎 撮影:水谷泰永


左:間宮明太郎 右:間宮正男

〔作品〕ごく初期の明太郎の作品は木村弦三のコレクション中に何本かあり、現在は弘前市立博物館に収蔵されている。〈こけし時代・11〉で写真紹介された。

鹿間時夫は明太郎の作品を評して「全こけし中、おそらく最も原始的形態で、描彩は児童画を見るようである。矢内収集にある昭和初期のもの(下掲写真)は原始的な埴輪を思わせ、紫ロクロ線が上下に一本づつあり、ボタン状の二つの点と葉のようなものが墨で描かれている。〈こけし辞典〉」と書いた。

〔17.0cm(大正期)(矢内健次)〕 金井虹二旧蔵
〔17.0cm(昭和初期)(矢内健次)〕 金井虹二旧蔵

下掲写真の右のものは昭和初期の作でおそらく大鰐こけしの祖形である「木おぼこ」に最も近い作ではないかと思われる。間宮明太郎は西田峯吉の調査に応えて「子供の頃、大鰐に木人形があって、それは造り付け、直胴で寸法は4、5寸くらいのもの、頭は墨で塗るか、またはろくろで輪をいれ、目は瞳のない一筆描きであった。胴は模様なしで、線すら入れないものがあり、もし線を入れる場合でも鉋で条を入れるか、もしくは墨か赤の細線を上下に入れただけのものだった。」と語ったという〈こけし風土記〉。大正初期に大鰐で木地講習会があり、講師として鳴子工人が多く入った影響が、その後のこけしにはあったが、この右端5寸はそれ以前の大鰐古型を偲ばせる作である。

〔左より 15.0cm(昭和初期)、18.5cm(昭和12年ころ)(矢内健次)〕
〔左より 15.0cm(昭和初期)、18.5cm(昭和12年ころ)(矢内健次)〕

下掲の深沢収集の二本は、昭和9年頃の作、古風な雰囲気を残した快作であるが、胴の形態に鳴子の影響が入っているかもしれない。

〔左より 16.6cm、18.4cm(昭和9年)(深沢コレクション)〕
〔左より 16.6cm、18.4cm(昭和9年)(深沢コレクション)〕

戦後は別人の描彩もあり、また昭和30年以後は正男が明太郎の型と自分の型を描き分けていたとも言う。

系統〕 津軽系大鰐亜系 長男正男、正男の弟子五十嵐嘉行、嘉行の弟子橋本恒平、稲田瑛乃が明太郎の型を継承している。

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