宮本永吉

宮本永吉(みやもとえいきち:1880~1951)

系統:鳴子系

師匠:宮本惣七

弟子:

〔人物〕 明治13年10月5日、岩手県西磐井郡山目村山目字東五代二に生まる。木地業宮本惣七の長男。弟に永七、栄三が居た。明治22年に母が死亡した。しばらくして一家は一ノ関市川小路の伯父惣蔵(惣七の長兄)の家に父と共に寄寓した。明治40年ころこの地を訪れた鳴子の伊藤松三郎は、未だに二人挽きで木地を挽いていた親子の木地屋を見ている。おそらく惣七が挽き、永吉が綱取りをしていたのであろう。その後、足踏みをどのように習得したかは不明。川小路に7、8年いたが、伯父惣蔵が明治42年になくなったので、やがて一家は川端(地主町54)に転居、この地で23、4年の間木地を挽いた。この地主町時代に守谷九蔵が父惣七の弟子となった。大正8年に父惣七は死亡した。
昭和12年3月、道路工事のために地主町を立退き、下大槻街7に移る。このころはこけしをあまり挽かず、昭和16年に深沢要が探訪したころは柄杓を多く挽いていた〈こけしの追求〉。収集界に知られたのは昭和5年〈日本の郷土玩具・東の部〉であるが、探訪記事は深沢氏のみのようである。鹿間時夫が昭和13年訪ねたときには、実直な職人肌の人という印象をうけたと書いている。木地修業は父惣七についたが、弟子はとらなかった。妻セヲノとの間にサキ、菊池、ツキ、ミヤの一男三女があったが、息子は誕生1ヵ月目に幼死し、ツキ、ミヤも同じく幼死した。昭和26年9月21日没、行年72歳。
 

宮本永吉 昭和16年9月 撮影:加藤文成

宮本永吉 撮影:水谷泰永

〔作品〕 ホオノキの白地に墨と赤のみで描彩を行なった。かなり古く鳴子から分岐した系譜と思われる。永吉は父宮本惣七の型を継承したが、惣七は大正8年に亡くなって居り、永吉の熊手様の胴模様は惣七の菊花模様を多分に単純化したものとなっている。この菊花の描き方も年代的に漸次変化した。〈日本の郷土玩具・東の部〉に掲載された昭初の作品は、菊も各花弁を接して描き、ぼってりと6弁ないし7弁であった。鬢は長く眉間開いて情味に富んでいた。四つ重ねの菊が普通であるが、そのうちの一つないし二つの花は中心よりずらして描く事が多い。昭和8年以降になると5弁で描く事が多くなった。昭和10年代になると5弁があまり接せず、ぱらぱらとしており、鬢は短く、眉間も狭くなって、表情はやや硬くなった。昭和10年代の作品は比較的多く残っている。戦後の作品はよくわかっていない。年代の鑑別でもう一つ重要なのは頭部の水引状の赤点である。大正期から昭和10年頃までは。前髪の後ろに中央及び左右と三つの部分に分けて描かれる。寸法や作った状況に応じて、中央3本、左右2本(2、3、2)だったり、中央3本、左右も3本(3、3、3)だったりする。昭和十年代に入ると赤点は均等の幅で7つ描かれる様になる。昭和16年以降になると赤点の数は増えて10個近く描かれる様になる。この頭部の描法は、父惣七の描法とも異なる。
    
       

永吉の年代変化は菊花の弁数と水引状の赤点の配置が判断の目安になる。

下掲は頭部赤点は2、3、2で描かれており、また花弁数は7であるので大正期の作と思われる。面描も惣七の面影を残して古雅であり、永吉の最も優れた作例である。 


〔16.4cm(大正期)(河野武寛)〕

下掲は西田記念館の永吉で上掲のものに近接する時期の作。西田峯吉が昭和14年3月岩手県水沢町の古物商より入手したものという。花弁は7つ、前髪を飾る赤点は3、3、3である。〈図譜 原郷のこけし群〉では、これを惣七としているが永吉作である。


〔 19.7cm (大正期)(西田記念館)〕 西田峯吉コレクション

下掲の西沢笛畝旧蔵の3本を見ると、菊花の弁数の変化が良くわかる。


〔右より 43.2cm(大正期)、20.3cm(昭和7年ころ)、27.7cm(昭和14年ころ)(西沢笛畝旧蔵)〕

下掲写真の永吉は、水引き状の赤点は、3、3、3と描かれており、菊花の弁数は6である。橘文策が昭和7年秋の東北旅行の際に入手したもの、〈こけしざんまい〉p.112に単色版で掲載されたこけしである。橘文策には、「こけし作りは代々行なわれ、中尊寺詣りの客に売られた。しばらくこけしは作らなかったが、神戸の人に頼まれて親爺の作っていた昔風のこけしを再び作り始めた。昔同様に参詣道でも売る様になったが、趣味家からの注文も今では侮りがたい数になっている。」と語ったようである。


〔 22.6cm(昭和7年秋)(渡辺純)〕 橘文策旧蔵品

下掲写真の永吉は、水引き状の赤点は、2、3、2と描かれており、菊花の弁数は既に5であるから、昭和1ケタ台の後半の作とわかる。永吉の平均的な作例である。


〔 29.5cm(昭和9年ころ)(橋本正明)〕

下掲写真は深沢要が訪問した昭和16年ころの作と思われる。菊花の弁数は5、前髪の後ろの赤点は均等に分布して10に増えている。


〔25.8cm(昭和15年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔永吉えじこ2種 右:昭和10年頃 左:大正期(鈴木康郎)〕

〔伝統〕 鳴子系外鳴子
鳴子から古くに分かれた型であり、貴重な作者であったが、後を継ぐ子供や弟子は居なかった。廃絶を惜しむ地元石橋ホテル主人や尾張屋の横地省三らの依頼で鳴子の秋山忠市が永吉型を作ったことがある。
最近では岩手の型が失われる事を惜しんで、盛岡の田山和文や田山和泉が永吉型を作ることがある。

〔参考〕