村上玉次郎

村上玉次郎(むらかみたまじろう:1926~)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤護

弟子:

〔人物〕大正15年11月21日、岩手県気仙郡盛町の木地業村上蔵吉、とも江の次男に生まれる。母とも江は遠刈田の佐藤寅治の娘で、佐藤護の姉にあたる。父蔵吉は遠刈田の佐藤善八について木地を学んだ人、及位や肘折でも木地を挽いた。大正15年から盛町(大船渡)で木地業を営んでいたが、昭和3年3月、玉次郎が3歳のとき脳溢血のため34歳で亡くなった。そのため玉次郎は、母と共に遠刈田へ帰った。同年代の佐藤三男とともに子供時代からロクロに興味を持ち、足踏みロクロに上がったりして遊んだ。
高等小学校卒業後、佐藤守正と共に上京し、昭和18年3月東京工学院大学専修科卒業した。昭和19年予科練に入隊した。
戦後、遠刈田へ戻り、母の弟佐藤護について木地修業したが、約1年で中断して上京した。昭和21年4月より25年3月まで大林組東京支店に勤務、昭和25年4月から9月まで大和運輸㈱取締役をつとめた。昭和25年9月に遠刈田へ帰り、昭和30年4月まで遠刈田の叔父佐藤護について木地修業、この時の兄弟弟子には護の長男佐藤栄一、次男寛次がいた。30年後半は遠刈田の駐在所前にて挽いていた。この年の11月に和子と結婚し、翌昭和31年3月に仙台市穀町に転居して独立した。昭和35年に仙台市二軒茶屋に移ったが、このころ佐藤寛次が来て職人として働いた。昭和44年仙台市原町苦竹字町に移った。仙台で最初は新型を主に挽き、昭和35年以降旧型を本格的に作るようになった。鹿間時夫は会ったときの印象を「積極的社交的で如才なく、木地職人というより商人の風格がある。」と書いていた。

村上玉次郎

村上玉次郎

〔作品〕〈こけし辞典〉では「昭和36年ころ丑蔵息子三男(光保)にすすめられ、丑蔵の文六型を写したこけしを作った」として下掲と同趣の作を掲載したが、玉次郎は文六型ではなく父蔵吉の作を思い出して作ったものと記している〈ばんかき・106〉。


〔23.7cm(昭和36年ころ)(ひやね〕〕蔵吉型

こけしは概ね佐藤護の様式に従っている。胴の菊模様は寛次と似て余白が目立つ描き方である。寛次のこけしが護からの伝承性が強いのに比し、玉次郎は仙台にいた朝倉英次等の影響も受けていたかもしれない。


〔 30.3cm(昭和54年)(高井佐寿)〕

また、平成3年には仙台こけし会の薦めで再び父の蔵吉型を作った。

村上玉次郎の蔵吉型(平成3年)

〔伝統〕遠刈田系周治郎系列。佐藤護の系統

 

〔参考〕

  • 村上玉次郎:「二十一世紀に向かっての”伝統こけし”を想う」〈ばんかき・104~107〉(平成2年5月~12月)
  • 村上玉次郎:「無風状態にある旧型こけし」〈こけし手帖・461〉(平成11年6月)
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