渡辺喜平

渡辺喜平(わたなべきへい:1910~1988)

系統:土湯系

師匠:渡辺角治/水戸繁三郎

弟子:渡辺幸典/渡辺義徳

〔人物〕 明治43年10月15日、土湯の農業、木地業 渡辺久吉・イチの四男に生まれる(長兄武治、次兄源吾ともに生後間もなく亡くなっているので二男と紹介した文献が多い)。三男の兄彦平は父が姶めた旅館山根屋をついだ。渡邉作蔵は祖父に当たる。
喜平は大正10年12歳のとき、飯坂鯖湖の木地業山根屋渡辺角治の養子となった。角治没年の前年で、大石与太郎、高橋忠蔵等の弟子は独立して飯坂を離れた後であったので、飯坂には木地を学ぶべき師匠の適任者はいなかった。若い水戸繁三郎が職人で残っていたので、喜平は繁三郎から木地を習った、その繁三郎も18歳で亡くなってしまった。
喜平は昭和4年20歳のとき遠刈田へ行き、北岡の工場で1年間働いた。秀一、護、英次、正吉等がいた。また日光、会津、秋保等も見て歩いた。
〈こけし手帖・83〉の「こけし抄録」(柴田長吉郎)では、「こけしは角治について習った」というが、角治は晩年脊髄カリエスに悩まされ、大正9年に動力が入った頃、一時期挽いたのみであったから、角治からの伝承は限定的であったと思われる。描彩については明らかに義母キンの影響であろう。
その後、木地業よりも養狸業を熱心に行なっていたが、昭和16年春よりこけしを再び作る様になった。名前は橘文策により〈木形子・2〉で紹介されたが、この頃はほとんど作っておらず 〈古計志加々美〉によってようやく写真と共に紹介された。
この頃、蒐集家が義母キンのこけしを求めるようになり、その木地を喜平が挽いたこともあった。この事と喜平のこけし製作再開とは無縁でなかったかも知れない。
戦後は寡作ながらこけしを作り続け、次男義徳、長男幸典に木地とこけし製作を教えた。
昭和63年4月30日に没した。行年79歳。

渡辺喜平

渡辺喜平夫妻

〔作品〕 喜平のこけしは、その製作経歴から考えると正末昭初から存在したはずであるが、その時期のものは確認されていない。
下掲写真は、旧橘文策コレクションが岡崎にあったときの写真であるが、右端は佐久間粂松、左の2本が飯坂鯖湖のこけしといわれている。ただし、左端は明らかに渡辺キン描彩であるのに対し、中央のものの描彩者については喜平説もある。描彩は全体に稚拙であり、鼻の描彩が下方で細くなる点は、喜平の所謂「象鼻」と同様であること、また鬢飾りの中心の丸が扁平ではなく真円に近く描かれている点、鬢飾りが前髪からやや離れて描かれる点などが喜平説の論拠となっている。ただし、喜平説は未だ確定的ではない。
このこけしと同種のものは中屋惣舜が入札で手に入れたことがあり、昭和一桁代に何本か蒐集家の手に渡っていたことがわかる。


旧橘文策蒐集品

橘文策は喜平がこけしを作ると言う話を聞いて〈木形子・2〉の県別産地展望に、そのことを書いたが、いくら注文しても作ってくれないと付け加えていた。昭和14年刊の〈こけしと作者〉でも同様の記述であった。写真紹介は昭和17年刊の〈古計志加々美〉が最初である。
下掲の写真の右端は典型的な戦前の喜平作である。〈古計志加々美〉の写真で紹介された喜平もこの時代のものであった。解説に「象の様に長い鼻」と書かれた。また前髪と接しないで、少しはなれて鬢飾りが描かれるのも戦前喜平の特徴である。キンの鯨目と違う瞳の描法は、鎌先から来て職人をしていた高野辰治郎の弥治郎風描彩の影響かも知れない。


〔右より 21.2cm(昭和16年)、24.0cm(昭和36年頃)(高井佐寿)〕

戦後の作品は、頭部形態がやや独特な鉢型になり、面描はかなり腺病質になった。
昭和30年代、40年代の作品より、晩年のもののほうがむしろ鯖湖の雰囲気は出ていた。
後継者に長男渡辺幸典、聡がいる。次男の渡辺義徳も一時こけしを作ったが転業している。

〔伝統〕 土湯系鯖湖亜系

〔参考〕

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