奈良靖規

奈良靖規(ならやすのり:1897~1985)

系統:独立系

師匠:見取り

弟子:

〔人物〕明治30年10月25日、秋田県大湯の教育学の思想家奈良吉太郎の長男に生まれた。大正6年秋田師範本科第一部をを卒業、切石小学校に教師として赴任した。大正13年には台東区富士小学校に赴任となり上京した。昭和8年からは朱子学の一派である崎門学を内田周平より学ぶ。更に昭和11年には崎門学の岡次郎に師事し、同時に富士小学校を辞して、三友社に入社、参謀本部嘱託となった。昭和18年には秋田県立高清水道場長となった。終戦後、昭和21年故郷の大湯に戻った。昭和25年に大湯町公民館長、昭和28年に大湯町教育長、昭和32年に十和田町教育長を歴任、昭和46年の市町村合併により教育長を辞した。昭和42年に勲五等瑞宝章、昭和49年に鹿角市文化功労賞、昭和53年に秋田県文化功労賞をそれぞれ受賞した。
戦後帰郷後の本業としては自身で設立した十和田工芸所における木地業が中心であり、盆、椀、バット、漆器木地、玩具などを作った。十和田工芸所には職人として、川連の大類連次、阿部平四郎、大館の今晃、仙台の鈴木昭二、大湯の奈良吉弥などが働いた。奈良靖規はこうした職人達の仕事の見取りで、自らも木地にたしなむようになった。また職人達の木地に各種の創案のこけしの描彩を行った。
靖規は木地業だけではなく、紫蘇の実漬け、山椒の実漬け、南蛮と茗荷漬けなど漬物販売の起業もおこない、一方では「自我発展に基調した音楽教育」「新教育の樹立へ」等教育関連の著作も多く残している。
昭和60年4月30日没、行年89歳。

描彩する奈良靖規 

〔作品〕靖規がモチーフを設定して工夫した各種のこけし様式があり、新作と創作の中間のようなものもある。ただ、大湯には小松五平もいたので肩のある鳴子の形状を持つものが多い。下掲もその一つで靖規はこれを「祝こけし(だんぶり)」と称していた。秋田の民話「だんぶり長者」がモチーフになっている。この「だんぶり」の様式は、松に朝日が昇るところなど阿仁町比立内の松橋良幸と共通するところが多い。松橋が「だんぶり」を参考にしたのかもしれない。


〔24.2cm(昭和25年頃)(奈良靖規)〕奈良靖規著〈こけしと伝説〉掲載

「だんぶり」のほかに「大湯の綿木」「男鹿の椿」「田沢の辰子」など民話や伝説に基づくいくつかのモチーフのこけしを作った。

〔伝統〕独立系あるいは創作
伝統性についていえば特定の師匠に就いたわけではなく、十和田工芸所で職人を勤めた木地山系、作並系、鳴子系の工人達の作に触発されたものであり、明確な伝統性があるわけではない。

〔参考〕

  • 奈良靖規:〈こけしと伝説〉北鹿新聞社(昭和25年8月5日)
  • 中根巌(木念人):奈良靖規「伊勢こけしたより・100〉(平成14年5月)
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