柴田良二

柴田良二(しばたりょうじ:1944~)

系統:木地山系

師匠:柴田鉄蔵

弟子:

〔人物〕 昭和19年1月16日、秋田県川連村大館字屋布前の小椋慶次郎・ムラの次男に生まれる。川連村三梨の叔父柴田鉄蔵の家で育った。昭和33年15歳のときに、こけしを作った。そのこけしはその時大館の柴田鉄蔵をたまたま訪れた山本侘助が入手、そのいきさつを〈こけし手帖・71〉の「思い出のこけし」に書いている。
teryou「紙をひらいて、中のこけしをわたしや客の老人に見せました。期待していたとおりのこけしでした。泰一郎型のほうを指してこれはおれの師匠の型だ、と言いましたが、そのときの言い方は実にきっぱりとしていて、いかにも亡き師匠に対する職人気質がうかがえて印象的でした。 写真の二本はこのときの八寸ですが、もう一本左側の小さな妙なのは、小椋良二君という十五才の少年のものです。鉄蔵さんの孫だか甥だか忘れましたがこの少年が初めて作ったという二本のうち、一本を記念にもらったものです。とにかくこの少年が鉄蔵さんはかわいくてかわいくて仕方がないらしく、この子のことを話すときは、頑固じじいの表情はかけらも無くなり、甘いおじいちゃんの顔だけでした。そういう意味ではこれも鉄蔵さんを思い出させるこけしです。」 写真は左端:柴田良二5寸、右2本:柴田鉄蔵8寸(左端が泰一郎型)〈こけし手帖・71〉。

昭和35年2月に正式に柴田鉄蔵・ナミエの養子となったが、同年4月に養父鉄蔵は亡くなった。中学を卒業したあと定時制の高校に通いながら川連漆器の職人に弟子入りし、沈金師となって働くが、漆器製作だけでは生活が難しく、20歳のころに建築関係の仕事に就いた。その後、川連仏壇の人気が高くなったので30歳の頃川連で仏壇販売の会社を設立した。こけし製作は仕事が落ち着いているときに少しづつ行っていたようであるが、製作数は必ずしも多くなく殆ど休業に近かった。昭和47年に名古屋こけし会の田中舜二の勧めでその年の12月に泰一郎古型を製作した。本格的な再開は65歳を過ぎた平成22年頃で、会社経営を親族に委ねられるようになってからであるという。震災供養のために地蔵こけしを作って被災地に寄贈したこともある。

〔柴田良二(沼倉孝彦撮影)〕

〔柴田良二(沼倉孝彦撮影)〕

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柴田良二 平成28年6月 撮影:千葉 友和

〔作品〕 15歳で作った後、かなりの期間ほとんどこけしは作っていないと思われるが、戦後のこけしブームの時期に蒐集家に頼まれて作ったこけしがごく少数残っている。フォルム面白く、往年の鉄蔵ばりの茫洋とした作だった。
〔22.3cm(昭和47年11月25日)(橋本正明)〕
〔22.3cm(昭和47年11月25日)(橋本正明)〕

柴田良二・S49頃
〔18.5cm(昭和49年頃)(沼倉孝彦蔵)〕

昭和51年4月作では、なで肩のおとなしい作風に変わっている。

〔23cm(昭和51年4月25日)(沼倉孝彦蔵)〕
〔23cm(昭和51年4月25日)(沼倉孝彦蔵)〕

後年少しづつ製作を再開した以降のこけしは〈東北のこけし〉にその作例が掲載されている。(下に掲載写真の平成14年22.3cm)また、こけし千夜一夜物語第595夜(平成23年)にも再開後の作が紹介されている。
〈伊勢こけしだより・144〉、〈木でこ・206〉に掲載された平成26年作(高井佐寿蔵)は養父柴田鉄蔵の型をしっかり踏襲したものに戻り、木地山系のこけしとして安定した作品になっている。胴模様は、菊、前垂れに菊、あやめ、彼岸花、なでしこ、しだれ桜などを描く。

〔右より 20.6cm(平成14年12月)、26.4cm、23.3cm(平成26年2月)(高井佐寿)〕
〔右より 20.6cm(平成14年12月)、26.4cm、23.3cm(平成26年2月)(高井佐寿)〕

〔17.7cm(平成27年9月)(橋本正明)〕 東京こけし友の会頒布
〔17.7cm(平成27年9月)(橋本正明)〕 東京こけし友の会頒布

実父小椋慶次郎型のこけし製作も行なっている。

 
〔右より 12.5cm(平成29年1月)、18.5cm(平成29年5月)(橋本正明)〕 小椋慶次郎型

小椋石蔵型のこけしも作る。


〔 24.7cm(平成29年5月)(橋本正明)〕

〔伝統〕 木地山系。柴田鉄蔵の系譜 良二の子供は娘ばかりで皆嫁いでいるので後継者はいない。