広井賢ニ郎

広井賢ニ郎(ひろいけんじろう:1893~1970)

系統:遠刈田系

師匠:広井朝顕

弟子:広井道顕/広井政昭

〔人物〕  明治26年2月29日、江戸の木地師広井朝顕次男として東京市本所菊川町に生まれた。戸籍上は閏年を嫌って2月20日生まれとなっている。
広井家は諸家譜巻によれば嵯峨源氏渡辺氏の出で、渡辺姓であったが、後に広井姓に改めたという。徳川家光の時代には外科の番医(御殿医)となって、以降8代にあたって徳川家の番医を務めた家柄である。
9代目の照顕も徳川将軍家の御殿医で、奥医法眼と呼ばれていたが、次々と市販の独楽を買い集め、大きな茶箱に7、8箱になったという。だが集めるだけではあきたらず、職を退いたあと、箱根から天野房吉という木地師を屋敷内に住まわせ、この頃より本格的に江戸時代に造られた独楽の復元に力を注ぎ、自ら独楽師として、東京市本所柳原町で木地挽きを始めた。木地屋としては初代で、慶応4年5月15日に亡くなった。2代目朝顕は安政3年生まれで、やはり木地挽きに携わる。朝顕の長男聖一郎は明治23年6月23日生まれで、おもに江戸玩具を足踏轆轤で挽き、浅草で商ったが、早くに引退した。

賢二郎は幼い頃から轆轤に親しみ、木地師としては3代目、父朝顕につき東京市城東区大島で木地挽きを習った。木地の腕は抜群で、おもちゃを中心に何でも挽きこなしたという。やはり製品は浅草の仲見世で商い、いわゆる江戸の木地玩具、江戸独楽は下町の名物となっていった。
大正9年父朝顕が当時流行したスペイン風邪で死亡して、文字通り家族を支える事となる。 やがて神田美土代町の大工の娘加藤としと結婚して、長男道顕、次男政昭をもうける。昭和20年3月の東京大空襲で焼け出されるまで、江東区大島で木地を挽いていたが、その後都内で、麻布、白金台でも焼け出され、昭和20年6月宮城県白石市に疎開した。白石郊外の福岡村で傘轆轤を使って玩具等を作ったが、やがて市内の「とらや」で木地挽きの指導を行い、渡辺幸九郎、佐藤雅雄、鎌田文市等と親交を重ね、こけしを覚えることとなる。
昭和22年12月に一家で仙台市北二番町に移住、さらに昭和25年には仙台東七番町に移った。当時仙台では佐藤巳之助、佐藤賢治、海谷吉右衛門、朝倉英次等が木地を挽いていた。その後同地で木地を続けたが昭和45年1月4日に没した、行年78歳であった。

〔作品〕  長い木地経歴の中で、白石、仙台のこけしを作る工人との交誼の結果、様式的には伝統こけしの範疇に入るこけしを作る。遠刈田系の作品で、猫鼻に一側眼、胴模様はロクロ線をいれ、上部に蕾を描き、写実的な横花を描く独自の作風である。こけしは専門ではないが、決して凡手ではない。ただし本領は江戸独楽、木地玩具である。

〔18.3cm(昭和30年代)(高井佐寿)〕
〔18.3cm(昭和30年代)(高井佐寿)〕

系統〕 遠刈田系

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