柿崎酉蔵

柿崎酉蔵(かきざきとりぞう:1825~1894)

系統:肘折系, 鳴子系

師匠:不詳

弟子:柿崎藤五郎/奥山運七

〔人物〕 文政8年現在の山形県大蔵村肘折の八鍬熊蔵(二代目の八鍬林蔵)の四男に生まれる。父熊蔵は、若いころ永松鉱山で働き、後に検断となって大蔵鉱山に勤めたと言われる。

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酉蔵が生まれた八鍬林蔵の家
(稲花まんじゅう、くじらもち 八鍬林蔵と書かれた看板があった。昭和43年撮影)

酉蔵は7歳くらいの時に升形の寺に小僧に出されたが12歳の時に肘折に戻った。酉蔵が升形にいるときに天保4年の大飢饉があり、八鍬林蔵の隣の柿崎伝蔵の一家が離村して戻らなかった。伝蔵家は空き家となり、その家の維持は難しく、ついには家の中から破れた屋根の隙間越しに月見が出来る程になったので、近隣相談し村主の許可を得て、帰郷した酉蔵がこの家を継いで柿崎伝蔵を名乗ることとなった(加賀山昇次〈こけしの郷愁・7〉)。結婚の年代ははっきりしないが、伝蔵の妻女となったエイは新庄藩士族津田宗助の長女である。
その後、しばらくして肘折を出て鳴子方面に到り、木地の修業をしたと言われる。
鳴子における木地の師匠は不明であるが、三原良吉の奥山運七よりの聞き書きによれば、運七は「陸前築館より来た鳴子系の木地師肘折伝蔵について業を習得した」〈こけし這子の話〉ということであるから、酉蔵は鳴子方面で木地を習得したのち、もうしばらく築館で木地業を行っていて、肘折伝蔵と名乗っていたことが分かる。
鳴子で最初にこけしを製作したと言われる大沼又五郎は、酉蔵の1歳年長であるから、あるいは酉蔵は又五郎に木地とこけし製作を習ったかもしれない。また近年鬼首で発見された「高橋長蔵文書」によれば、文久年間には鬼首の近辺でもこけしが作られていたことが明らかになったので、鬼首においてこけしを作る木地師についたのかもしれない。築館は鳴子から鍛冶谷沢(川渡)、一迫を経て、登米に到る途上であるだけではなく、鬼首から直接一迫を経て、登米に到る途上にもあたる。

肘折に戻って開業した時期は、明治10年頃と言われている(加賀山昇次〈こけし手帖・4〉)。
肘折では玩具類のような小物製品が主体で、概してこけしは最も人気のある製品だったという。
明治13年には、山形県村山の井上藤五郎を弟子にした。また明治17年には奥山運七も弟子入りした。一説には横山新助も伝蔵に木地を学んだと言うが定かではない。
井上藤五郎は伝蔵(酉蔵)から木地を学んだ後、明治20年遠刈田新地の佐藤周治郎のもとに行き、足踏みロクロの技術を習得した。肘折に戻った藤五郎を伝蔵はことのほか可愛がって、明治23年に藤五郎を養子とした。

明治27年3月6日没、行年70歳。

伝蔵の没後、藤五郎は柿崎伝蔵の家名を継ぎ、先代酉蔵の養女「みね」(新庄藩士族の出、戸沢家剣術指南津田多忠の五女、明治14年生まれ。養母エイの姪にあたる)と結婚している。

〔作品〕 作品は不詳。おそらく鳴子系のこけしを作ったと思われる。

藤五郎は遠刈田の佐藤周治郎に習っているので、酉蔵の鳴子様式と遠刈田様式を融合させた独自のこけしを作り始め、ここで肘折系のこけしが完成した。奥山運七は、遠刈田から帰った藤五郎から足踏み技術を学んでおり、こけしの様式もその影響を受けている。

明治36年に尾形商店の 工場にきた鳴子の大沼新兵衛は、最初純粋な鳴子風のこけしを作ったがあまり売れず、肘折風のこけしを作ったといわれているから、その時期にはすでに肘折の様式は完成定着していた。

系統〕 伝蔵(酉蔵)の作品は不詳であるが、鳴子系だったであろう。

 

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