尾形政治商店

明治33年ころから昭和25年ころまで山形県最上郡大蔵村肘折温泉で営業し、土産物、木地製品、玩具、こけし等を扱った商店。昭和4年までは木地工場も経営し、多くのこけし工人がここで働いた、

尾形政治は、慶応元年山形県飽海郡南平田村阿部傳兵衛の次男に生まれた。若いころに山形県大蔵村肘折に来て、近くの永松鉱山へ坑木を納める事業を興し成功した。明治30年肘折の尾形マサエの娘キヨエと結婚、尾形性に変わった。このころに政治が肘折で開店したのが尾形政治商店である。明治33年、尾形政治は肘折の農業斎藤永平(斎藤伊之助の父)の下屋を借りて木工所を開設し、当時最上郡大蔵村熊高で働いていた遠刈田出身の佐藤周助を勧誘して土産物の木地製品(主に玩具やこけし)を作らせた。肘折では佐藤周助のことを熊高木地と呼んだ。周助のもとには古関福太郎、八鍬長吉等が来て弟子になった。 明治35年以降は佐藤文六が工場主任となり、周助は横山政五郎の隣家で独立した。周助は主に横山仁右衛門商店の仕事をした。
尾形の工場では文六が招いた佐藤丑蔵、三治兄弟のほか、鳴子から鈴木庸吉、大沼新兵衛、遠刈田から村上蔵吉、白川久蔵、鈴木幸之助、肘折の八鍬亀蔵などが入れ替り来て働いた。工場にはロクロが4台備え付けられていたという。また、この時期に文六に弟子入りして木地を学んだ者に、斎藤永平の長男伊之助、湯田川から来た工藤治助、戸沢村の佐藤平吉などがいた。
明治45年5月、文六は山形県及位の佐藤盛昭の招請により及位に移り、丑蔵が一時そのあとを継いだ。しかし、待遇に不満があり、丑蔵も及位に去る。
大正3年尾形政治は楯岡出身の高宮喜助を娘カメエと娶せて婿養子とし、翌大正4年には佐藤丑蔵を呼び戻し、河原湯の近くに新規に最上木工所を開設、喜助を支配人、丑蔵をその主任とした。最上木工所の最盛期には職人50人を擁していたという。 大正6年政治は尾形政治商店の店舗を新築、このころが政治の絶頂期であった。

正面の茅葺屋根の店が尾形政治商店

正面の茅葺屋根の店が尾形政治商店

最上木工所

最上木工所

大正7年佐藤三治は尾形政治の姪の留江と結婚したので、佐藤丑蔵は最上木工所の主任を三治に譲って及位に移った。
しかし、大正9年に婿養子の喜助が亡くなり、政治長男の政次郎に最上木工所の経営を任せたが、第一次世界大戦後の不況もあって経営は思わしくなく、ついに昭和4年には木工所閉鎖せざるを得なかった。
昭和9年、娘のカメエは鶴岡一日町に分家、昭和13年5月4日尾形政治はたまたま訪問滞在していた鶴岡のカメエの家で急逝した。70歳であった。
尾形政治商店は、尾形政次郎が継いで昭和25年1月7日に60歳で亡くなるまで商店主を務めた。政次郎没後まもなく、遺族は店をたたみ、一家は鶴岡へ去って行った。

尾形政治の後は肉屋となったが、昭和46年、この店を解体したときに床下の木箱から、古いこけしと木地玩具が発見されたことは蒐集界を興奮させる出来事であった。

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この写真に示す茶筒(菊本栄次蔵)は佐藤丑蔵が大正10年に肘折に来て一時尾形の木工所の職工となった時に挽いたもの。尾形の木工所で働いた八鍬亀蔵(家名林蔵)に記念として与えたものである。

 

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