沢口悟一

大正から昭和にかけて活躍した鳴子出身の漆工芸研究家。

明治15年3月19日、宮城県玉造郡鳴子に生まれる。父は鳴子漆器改良組合長であった沢口吾左衛門。東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業。東京工業試験所に所員として務めたが、その後東京美術学校の講師となった。昭和9年にはその著作「日本漆工の研究」によって帝国学士院賞を受賞した。退官後は鳴子漆工常務をつとめた。
昭和26年には、墨を流したような模様が特徴の「竜文塗」を考案した。
昭和36年4月28日没、行年80歳。


沢口悟一著:日本漆工の研究(美術出版社)1966再販

最晩年には時々茶飲み話をしに大沼君子の家を訪れたという。君子の質問に答えて、昔の鳴子の様子を語ったようであるが、そのときにそばにあった菓子折りの包み紙の裏に、自分が10歳ころの鳴子湯元の様子として地図を描いたものが君子の手元に残っていた。

下図がそれを書き写してきたもの。地図に書かれた人名は沢口吾左衛門文書(明治21年)に記載された多くの職工の名前と一致する。吾左衛門文書記載の職種(木地挽き、塗師)を参考にしながら色分けをしてみた。
沢口吾一の記憶はほぼ正確と思われるが、明治25年ころという年代の部分には若干幅を見ておいたほうが良い。岡崎仁三郎の家は、明治25年であれば向かいの源蔵湯の下側の方にあったはずである。
深沢要の〈こけしの追求〉「鳴子追求」、西田峯吉の〈鳴子・こけし・工人〉などをこの地図を見ながら読むと、当時の様子が一層よく理解できる。

明治25年ころの鳴子湯元
明治25年ころの鳴子湯元
原図:沢口悟一

現在の位置でいうと、源蔵湯は鳴子観光ホテル、高橋万右衛門は鳴子ホテル、よこやは吟の庄、高橋直蔵は高亀、横谷善作は駅前を登ったところのまるぜん、遊佐伝五郎は姥乃湯にあたる。

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