木村弦三

きむらげんぞう 戸籍名は木村哲也。木村源蔵あるいは弦三の筆名を用い、こけし界では木村弦三として広く知られる。
津軽系こけしの復興に貢献した青森県弘前市のこけし研究家・蒐集家。
温湯、大鰐を中心に津軽地方の木地師たちにこけしの復活を促して、それを蒐集界に紹介し、今日の津軽系こけしの確立と発展の基盤を作った。

マンドリンを弾く木村弦三

マンドリンを弾く木村弦三

明治37年12月24日、青森県弘前市の呉服商の長男に生まれる。大正10年近所に住んでいた石坂洋次郎が慶應義塾大学に入学、その夏にマンドリンクラブに入った石坂が帰郷し演奏したのを聴き感銘、独学でマンドリンの奏法と作曲を学ぶ。日本大学芸術学部に入学するも体調を崩して中退し、帰郷する。大正11年石坂洋次郎とともに「弘前マンドリンクラブ」を結成、翌12年クラブの名を「マンドリナータ・デ・ヒロサキ」(作曲家で宮内庁式部頭となった武井守成の命名)とする。木村は演奏活動のほか作曲も行う。
大正14年、弘前市出身の詩人・評論家の福士幸次郎が弘前に戻り、地方主義運動を展開する。福士は東京の文化人たちが欧米文化の表面的な模倣に奔走していることに嫌気をさして、日本文化の基盤としての郷土文化を弘前から発信しようとした。
木村弦三は、詩人一戸謙三(津軽方言詩集〈ねぷた〉等)、画家棟方寅雄(岸田劉生の弟子)らとともに福士の地方主義運動に加わった。この運動の中で、津軽民謡・民俗音楽の収集を始め、郷土の音素材を中心とした作品を次々と作曲、発表した。
昭和3年からは、音楽にとどまらず、土偶、民俗土俗人形、凧、郷土玩具、こけし等の収集・研究にも力を注ぐようになり、そうしたコレクションは、弘前市下土手町に建てた別家に収納、その家を「朱魚房」と号した。その「朱魚房」の様子は〈木形子異報・4〉で写真紹介された。なお、「朱魚堂」「朱魚荘」などの堂号も用いたようだが、こけしの世界では「朱魚房」が一般的である。

朱魚坊
〈木形子異報・4〉で写真紹介された「朱魚房」

昭和3年以降こけし等に関心を持つようになった当初、具体的にどのような活動を行っていたのかは不明であるが、温湯、大鰐の古い木地師たちとかなり緊密に接触を持ったに違いない。おそらく、〈こけし這子の話〉は見ていたであろうから、盛秀太郎、嶋津彦三郎は知っていたであろう。彼らを取っ掛かりに、温湯、大鰐の木地師を訪れてさらに調査し、多くの工人にこけしの再興を要請したと思われる。
橘文策とはかなり早くから交流があり、〈木形子研究〉の会員募集には直ちに申し込みをしているし、同誌5号に「こけし発生の一考察」という一文を投稿したりもしている。これは津軽地方の山人が山中三助という木像を山の神に供える風習を紹介したものである。
橘文策が昭和7年10月に東北旅行を行ったときには、木村弦三の家に一泊し、別棟の「朱魚房」にも訪れている。
昭和8年頃からは、「津軽こけし頒布会」を主催し、多くの津軽のこけしを紹介した。例えば〈らっここれくしょん〉には盛秀太郎、斎藤幸兵衛、佐藤伊太郎、長谷川辰雄、佐々木金次郎が揃って昭和9年入手と目録に記載されており、それらはおそらく木村弦三の頒布によるものと思われる。
木村弦三の〈陸奥乃小芥子〉執筆は、おそらく昭和8年から9年始めであろう。発刊は昭和10年3月であるが、その稿が板祐生に託されたのは昭和9年2月だという。
〈陸奥乃小芥子〉によって、佐藤伊太郎、斎藤幸兵衛、山谷多兵衛、長谷川辰雄、三上文蔵、川越謙作といった津軽の工人達は始めて文献上でこけし界に紹介された。

〈陸奥乃小芥子〉表紙に描かれた伊之助こけし
〈陸奥乃小芥子〉昭和10年3月刊行
表紙には「その一」とあり、さらに「その二」が企画されていたのかもしれない。
実際には「その一」のみの刊行だった。

木村弦三は、橘文策が発刊した〈木形子異報・2〉(昭和9年)から、〈木形子異報・6〉までに「木地挽の扣書」を連載しているが、その文の中からも彼の丹念な津軽こけしに対する調査の一端を窺うことが出来る。
例えば、木村は大鰐の老木地師澤田九郎兵衛に会って、彼から明治20年に記録した「挽物値段控帳」を見せられた。挽物の中に「なめり棒三銭」とあるのを見つける。「なめり棒は例のおしゃぶりであり、これの大形はこけしとも云ふべきものであったらう。白木無彩ののまま大形のものだけは、時々目鼻を入れた、これが大鰐こけしの最も古い形態の一つである」と〈木形子異報・6〉」 に書いている。
また古老たちと話すうちに温湯には「長おぼこ」、大鰐には「木おぼこ」と呼んだ古風な挽き物人形が明治中期まで残っていたことを確信する。例えば、「木おぼこ」は「湯治帰りの土産に女の子に与えたというので忘れられぬもの」であったが、「その遊びはたいてい着物を着せて背負ったことが記憶にある」という木造町の松本たよ子からの聞き書きを採録している〈木形子異報・2〉。
津軽に「長おぼこ」「木おぼこ」というものが明治期に存在していたことについては、後に西田峯吉が独自の聞き書きも試み、かなり執拗に検証しているが、慎重な彼もその存在自体については「疑いは不必要であろう」と言っている〈こけし風土記〉。
地方主義運動を推進していた木村弦三が使命と感じたことは何か? それは、まず失われた「長おぼこ」と「木おぼこ」の再興であった。それが、温湯、大鰐の古くからの木地師たちにこけしの再現を強く要請する動機になっていた。
再現された個々の作者のこけしは、多様であったり、新趣向のものが有ったりで、その時点でのこけし界からの反応は必ずしも歓迎されるものではなかったが、一方で西田峯吉や鹿間時夫は〈こけし風土記〉、〈こけし・人・風土〉で非常に肯定的に扱っていた。
いずれにしても木村弦三の努力が無ければ、今日の津軽系のこけしは全く貧弱なものになっていたであろう。
こうした多様な津軽のこけし群の中で、木村弦三が求めた温湯の「長おぼこ」に最も近いものはおそらく佐藤伊太郎、斎藤幸兵衛の直胴にロクロ線だけのもの、大鰐の「木おぼこ」に最も近いものは間宮明太郎の頭部は墨彩色だけで、胴にはカンナ溝が入ったものであろう。これらが津軽こけしの源流だったと思われる。

津軽のこけし以外でも、大湯の小松五平、能代の脇本三十郎などは木村弦三によって紹介された工人である。

木村弦三は、戦後こけし蒐集界との接触には必ずしも積極的ではなかった。作曲、演奏、郷土玩具収集研究の他に、NHK、RAB(青森放送)などで伝承芸能継承、保存の番組を制作、「北方芸能誌」の刊行、新聞、雑誌に民俗音楽、民俗芸能に関する論文などの発表を続けた。
晩年は、日本の民謡の源流を探る研究に没頭して〈奥々民俗旋律集成〉(上・下)を出版、日本の楽曲の派生に関する研究に貢献した。 これらの活動により、昭和40年青森県文化賞、昭和42年青森県知事褒章、昭和43年東北音楽賞、そして昭和53年に勲五等瑞宝章を授与された。昭和53年3月12日没、行年75歳。

残念ながら、「朱魚房」のコレクションは、昭和33年の土淵川大洪水で壊滅的打撃を受けた。しかし、こけしだけは色を失ったものもあるがほぼ回収できた。そのこけしは今、弘前博物館に収蔵されている。ただし常設ではない。
平成26年に仙台のカメイ美術館で開催された「こけし時代」展覧会では、そのコレクションが展示された。また〈こけし時代・11〉(特集 続・津軽)には、復刻版〈陸奥乃小芥子〉と木村弦三コレクションの津軽関係こけし写真集が綴じ込みとして掲載された。「朱魚房」津軽こけしコレクションの初めての体系的な写真集であり貴重である。

弦三カメイ
カメイ美術館の展示:朱魚房の津軽こけし 撮影:山藤輝之

〔参考〕

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