及川吉三

及川吉三(おいかわきちぞう:1881~1943)

系統:南部系

師匠:見取り

弟子:佐藤七之助/小島敬三

〔人物〕  明治14年岩手県江刺郡岩谷堂町に生まれる。木地は、明治30年17歳の頃、工場で働きながら習得した。それゆえ師匠というものはいないが宮城県白石町生まれの佐藤熊治という工人から最も多く指導を受けたという(西田峯吉調査〈こけし・20〉)。
また一説には、石川県金沢の出身で、北海道の製麻会社で働き、その地で岩谷堂出身のうすえと結婚し岩谷堂へ来たともいう(佐藤七之助談)。
明治44年ころ岩谷堂にて開業、おしゃぶり、その他玩具を作って売り出した。岩谷堂でこけしを一本買い求め、これを縦に割って構造を調べ、見本にして作った。その見本は直胴のこけしだったという。
大正4、5年頃、東京の中川幸八という人から白木地のこけし五千個の注文があり、吉三が製作したが、幸八はこれに焼絵で模様をつけ、現代焼絵玩具として三越から売り出して好評を得た。またこのころ、岩谷堂の佐藤七之助を弟子として、ダライバンによる木地の技術を教えた。
大正8年暮れ、上閉伊郡鱒澤村の村長菊地長助に招かれて同地に移り、長助が経営する工場の職人として働いた。菊地長助は事業家でもあり、その開設したばかりの工場には、水力応用のロクロが4台あり、木地職人のほかに塗師も置いていたらしい。ともに働いた木地職人は丹藤武、製品は手摺り、机の脚、花筒、盆、皿、茶筒などであった。また仕事の合間に首の揺れるキナキナも作っていた(菊地長助談)。
及川吉三は、大正11年に一時期、二戸郡一戸に行って働いたが、それ以外はこの鱒澤の工場で、工場が閉鎖される大正13年まで働いた。
工場が閉鎖されて間もなく、遠野町の駅前に菊地久二の経営する木地工場が開設されたので、大正13年10月に遠野に転出し、その工場で働いた。菊地久二はもともと運送業であったが、遠野の豊富な木材を利用した木工業を起こすべくこの工場を開設し、及川吉三を職長として、徒弟の養成を進めようと考えた。製品は火鉢、盆、花筒などであったが、この地でもキナキナを盛んに作ったという。しかし、この工場も大正15年に閉鎖、及川吉三は岩谷堂へ戻った。
昭和3年水沢町に転住、ここでもキナキナの製作を行ったが、また新考案のこけしも作り、描彩は同地の石川雄次郎に依頼したという。
晩年にはソコヒを患って失明、水沢町の日高小路で老後を養ったという。息子がいたが出征して、戦死。出征の折は目が見えず、駅頭で手を握り合っての別れであったという。
昭和28年3月19日没、行年73歳。

及川吉三  撮影:水谷泰永
及川吉三  撮影:水谷泰永

〔作品〕  岩谷堂、遠野、水沢のキナキナには及川吉三のものがかなりあるはずであるが現存するもので吉三作とわかる物は非常に少ない。〈こけし辞典〉には小野洸蔵の新型風のえじこのみ掲載されている。
〈こけし這子の話〉に遠野として掲載され、製作人遠野駅前菊地久二として紹介された天江富弥旧蔵のキナキナは、及川吉三の経歴から見て吉三の作にほぼ間違いないであろう。

〔右より 7.6cm、13.9cm(大正14年頃)(天江富弥)〕 〈こけし這子の話〉
〔右より 7.6cm、13.9cm(大正14年頃)(天江富弥)〕 〈こけし這子の話〉

弟子の佐藤七之助はダライバンによる傘ロクロ師だったというから、及川吉三もダライバンの技術を身につけた木地師であったかもしれない。
本来のキナキナ作者でなくても、 南部の地で木地を挽くものは注文によりおしゃぶりのキナキナは作ったから、吉三もそのような注文に応じて、転々とした各地でキナキナを作ったでのであろう。

系統〕 南部系

〔参考〕

  • 西田峯吉:鱒澤きなきな、遠野きなきな 東京こけし会編〈こけし・20〉

東京こけし会 〈こけし〉 第20号 西田峯吉による及川吉三追求
東京こけし会 〈こけし〉 第20号
西田峯吉による及川吉三追求

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